2010年12月22日水曜日

『脳が変わる考え方―もっと自由に生きる54のヒント 』──リファレンスがよい

『脳が変わる考え方もっと自由に生きる54のヒント 』茂木健一郎 ( PHPエディターズグループ 201012月刊)

 もう茂木健一郎の「脳のなんとか……」にも辟易の読者もいるかもしれない。茂木氏に好意的な評価をしている私なども、そのあたりの感覚は否めない。しかし、店頭に新著が並べば、なんとなく手に取ってしまう。目次をぱらぱらとみて、ひとつかふたつ……いや、3つぐらい、「ん?」と思うものがあれば、買ってしまう。

 本書は、講演記録を編集者がまとめ、著者が加筆を経たものである。まあ、忙しい著述家にはありがちなパターンではある。しかし、それゆえに、というか、じかに書いたものより、氏の主張が凝縮されている。有効情報の割合が高い。それに、やはり、行間から滲み出る、著者の人柄のよさにどこか心が暖かくなる。すなわち、自分の持てるものは、あますところなく公開しようという態度である。

 英語、政治、科学、経済……著者はよく勉強し、し続けている。普通、そういうものの、リファレンスは、ネタもととして、あまり公開したくないものだが、著者は惜しみなく公開している。今、日本で、最も良心的な著者と言える。

2010年10月26日火曜日

『荒地』──やっと出た、より作者の意図に近い翻訳

荒地 』(TS・エリオット著、岩崎宗治訳 20108月刊、岩波文庫)

 日本の「現代詩」は、いわゆる「荒地派」から始まったが、この「荒地派」は当然、T・S・エリオットの『荒地』に影響を受けて、第2次大戦後、詩人として出発した人たちである。ところが、彼らが読んだエリオットの当のThe Wast Landの翻訳は、第1の詩の、The Burial of the deadのみであった。
 これは、われわれもよく知るところの、「四月は残酷な月……」という感傷的なフレーズで始まる第1部だけだった──。それを、終戦後の、古い価値観が壊れ、ある種の虚無に支配された時代のなかで、いわば、「我田引水的に」読解した──。

 いまの日本の「現代詩」と言われる出発点は、そういう皮肉な背景を持っている。評論家の加藤周一はそのあたりの「誤読」を認識して憂えてもいたらしい。

 本書の翻訳は、その出発点としてのエリオットをもう一度見直すよい機会を与えてくれる。訳者、岩崎宗治は、長年エリオットの研究をされてきた学者だが、「現代詩界」では、名前が知られているとは言えない。こうした乖離は、本書の「あとがき」等からもうかがえる。

 エリオットの、The Waste Landとは、アーサー王伝説のパロディであり、そのなかに登場する、「荒廃国」が、Waste Landなのである。この詩は、ジョイスの『ユリシーズ』の向こうを張って書かれたのであり、ドイツ語、フランス語が入り交じる多言語のテクストである。テクスト意識として、近いと思われるのは、ドナルド・バーセルミの『王』である。

 「ほんとうはお茶目な」The Waste Land(『荒地』という訳もいかにも感傷的であるが、すでに定着しているので、ダンテの『神曲』のように、今更べつの訳にするわけにもいかないのだろう)の、より作者の意図に近い訳がやっとでたという感じだ。

 本書の注釈と解説は、岩崎氏の研究の精髄がたっぷり盛り込まれていて、文庫本ながら、分厚い研究書にも匹敵するほどの情報量である。

 ただ、いまの日本の「現代詩界」とのスタンスのとり方が甘い。

2010年10月19日火曜日

『シングルマン』──芸術に必要な自己批判がない

『シングルマン』(原題: A SINGLE MAN)監督: トム・フォード

 ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』がいかに傑作かが再認識される映画である(笑)。

 確かにセンスはいい。しかし映画はスタイリッシュなだけでは成立しない。『悪人』のレビューにも書いたが、やはり、コリン・ファース演じる主人公は抽象的人物である。具体的な実感の感じられない人物が、いかに悲しみ、絶望しようと、観客は心を動かされない。いったい、コリン・ファースはどんな気持ちでこの役を演じたのか──。

 1960年代という時代をどうとらえているかも見えない。ただ、車の中にいる他人の犬に、窓の外から長いことほほを寄せて「バタートーストの匂いがする」なんてつぶやくところは面白い。実際にこういうオジサンがいたら、気味が悪い(笑)。……そうか、あまりに「こぎれいすぎて」、『ヴェニスに死す』のような滑稽さがないところが、本作を芸術から遠ざけているのかもしれない。

 芸術とは、自己批判があってこそはじめて成り立つ。それがなければ、ただのファッションである

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「けふのお写真」は、「枯葉のなかを歩くわん太」


2010年10月14日木曜日

『だから、新書を読みなさい』──フォーマットでくくってしまうには無理がある

だから、新書を読みなさい』奧野宜之著(サンマーク出版 2009年9月刊)

 新書というのは、かなり玉石混交率が高いフォーマットである。そう、それはただ、フォーマットにすぎない。ただ、近年続々刊行される新書の傾向を見ていると、確かに、本書の著者が提唱しているような方法で「読む」ことも考えられる。

 しかし、本書にあるように、新書だけに限定してしまい、テーマで検索をかけ、新書を探すと、池田清彦氏の『新しい生物学の教科書』(新潮文庫)を形式で、斎藤兆史氏の『努力論』(ちくま新書)をテーマで落としてしまう恐れがある。どちらも、すぐれた新書に見られる特質を持った本である。

 また、熊野純彦編著『日本哲学小史』(中公新書)や、清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)のような深い内容の本は、とても「喫茶店でザッピング」というわけにはいかない。

 そういうものを、すべて、「新書」という枠のなかに取り込み、その扱いについて、ひとくくりになにか言ってしまうことにはかなり無理がある。

 それでも、「あえて」、本書を買ったのは、いささか皮肉ながら、「新書よりも軽い」「軽くザッピングできそうな」本書の、装丁も含めたフットワークに、なにか新しさを感じたからである。

 情報収集の道具として新書を使うという方法は、まともな読書家なら当然なことばかりであるが、この著者ならではの方法といえば、『カレンダー世界史』や『20世紀理科年表』などを、「レファレンス」として使うというところであろうか。なるほど、こうした使い方なら、新書は、辞典より軽いし、気軽に書き込みもできる。

2010年10月13日水曜日

『ナイト&デイ』──「普通の女」の時代

 『ソルト』のアンジェリーナ・ジョリーの役は、トム・クルーズがやることになっていたそうだが、なるほど、あの役を、女性のアンジェリーナが演じた方がおもしろくなっていた。あれを、トム・クルーズが演じたら、『ミッション・インポシブル』とそう変わらない、二番煎じのスパイものになっていただろう。そういう役を蹴って(?)、トムが、なんで、わざわざ同じようなスパイ・アクションものに出るのか? 本作を観て納得した。

 スパイものも、時代が進むに従って、新しいなにかが必要になってくる。国際的な状況も、テクノロジーも、時代が映画に追いつき、追い越していく。ボンドガールを「守る」『007』は、設定が新しくなっても、どこか感情移入できない。強い女の『ソルト』は、時代には即していたが、ソルトの「事情」や背景が暗すぎた。

 いまは、「一般人」の時代である。「一般人」が、スパイを救う──。それを、「メカに強い」「楽観的な」「一般人の女」を、キャメロン・ディアスが演じている。ただの「ゴージャスな組み合わせ」以外、なんでこのふたりが? と思うような組み合わせであったが、映画を観れば、この2人しか考えられない組み合わせである。

 「デリケートな心遣い」が魅力のスパイ、トム・クルーズと、「大胆不敵な」一般人の女性、キャメロン・ディアスが、「いま最もピンと来る」スパイものを見せてくれる。

『上杉隆の40字で答えなさい』──真のジャーナリスト

『上杉隆の40字で答えなさい~きわめて非教科書的な「政治と社会の教科書』 (大和書房 20109月刊)

 フランスのLe Mondeや、Liberation、イギリスのBBC、アメリカのNY TImes、CNNなどをネットで読み、日本のできごとがどのように扱われているか比較検討していると、日本のメディアが、上杉氏の言っているとおりであることは納得できる。

 欧米のジャーナリストは個人的思想をベースに記事を書くが、日本の、とくに、大手の組織に属している「社員」のジャーナリストには、そういう「顔」は、許されない。テレビのコメンテーターも、新聞の社説も、一律、どこかで聞いたような、紋切り型意見しか吐かない。

 個人の責任でものを言っている場合には、その思想がたとえ偏っていても、「事実」については推測できる。偏っているぶんを、読み手が調整すればいいのだから。しかし、一律同じような大儀名文は、では事実はどうなのか、ということが見えにくいし、責任の所在も見えにくい。

 その意味では、日本には、真の意味でのジャーナリズムは存在しないかもしれない。上杉氏のスタイルがあたりまえのようになるべきである。

 池上彰氏と比較されているレビュアーがいらっしゃったが、池上氏こそ、不明確なジャーリストの代表のようなものである。だいたい、この人の文章読んでも、肝心なところは微妙に省かれているので、私的には、氏の本には、もう手が伸びない(笑)。

2010年10月7日木曜日

内田樹『街場のメディア論』──メディアの寵児、メディアを叱る(笑)?

『街場のメディア論』内田樹(光文社新書)
 
 本書で言われてることは、「しごくもっともな」ことである。さすが、人気の書き手、「メディアの寵児」である。しかし、これは、「大学の先生」の論理である。ということは、若い学生には、大変ためになるかもしれない。しかし、いいおとなが、それも、なにか知的思考をしようとするおとなが読むのに値するかどうか? 電子書籍に対する、紙の書籍の擁護に、書棚の見栄効果をあげているが、だいたい、見栄で、「書籍を配架する」(内田樹は、タメ語調のエクリチュールに、さりげなく、こうした漢語を混じらせ、「くだけている」が、「知的権威」でもある著作家を演出しているようにも見える(笑))などは、おもしろいパフォーマンスではあるが、現実問題としては時間の無駄である。
 
 なるほど、内田樹の論調は面白く、「(こころよく)辛口」であるが、私は、氏を、高橋源一郎、橋本治とともに、日本出版界の3大啓蒙家と呼んでいるが(笑)、結局、読ませる芸はある。しかし、ほんとうのところ、これらの人たちは、「自分のことにしか関心がない」ということを、読者は心得たうえで、ファンになるならなればいい。

 読者は、本書を読みながら、果たして、自分はこういう世界に生きているのか、胸に手をあてて考えてみられるといいと思う。

 内田氏は、ネット上の氏の書き物に対して著作権フリーを宣言しているが、こういう行為は、いかにもかっこいい。だが、実は、10年前にもそういう文筆家はいた。「革命」はいいが、もしかしたら、世間的には、「はた迷惑」かもしれない。ほんとうに、メディアを批判するなら、まず、メディアからの仕事はすべてお断りになることですな。しかし、なんで、「街場」なんですか? ただの「メディア論」じゃ、いけないんですか?

2010年10月2日土曜日

『十三人の刺客』分析

ほんとうは、『パリ、20区』を観たのだが、それはまたのちほど語るとして、さらに、『十三人の刺客』を分析してみたい。

残虐城主に付き、彼を守り通している側近の、市村正親は、主人の行いをよかれと思っているわけではない。ときには、諌めてもみせる。しかし、武士とは主君に忠誠をつくすこと、が、市村の生のポリシーである以上、文字通り死ぬまで(笑)主人を支え続け、昔馴染みですらある、反逆者、役所広司と対立する。

『十三人……』では、赤穂浪士のように、城主を討つことはそれほど極秘ではない。すでに市村は知っている。集められた刺客のメンバーもわかっている。秘密なのは、そういう動きではなく。「作戦」である。ゆえに、これは、「真珠湾攻撃」ではなく、堂々たる戦争である。また、革命でもある。

作中、各所で、サムライとはなにかが問われる。市村は古いタイプの、というか、杓子定規にしか、サムライを考えられないタイプである。一方役所は、主人につくすと、いう忠義を、もっと人間的なものにつくすという、広義の、そして、高次のレベルへと考え抜いていく──。

それを、CGを駆使することもいとわず、一大エンターテインメントとして表現したところに、本作のすばらしさがある。

2010年9月29日水曜日

『十三人の刺客』──世界に出せる脱構築時代劇エンターテインメント

『十三人の刺客』監督三池崇史


 紋切り型の時代劇から完全に脱し、あらたな時代劇エンターテインメント像を作り上げている。しかし、ディテールや台詞回しはむしろていねいかつ地味に積み重ねられている。

 日本映画は、『宇宙戦艦ヤマト』のような、ハリウッドSFものまねをつくっても、ちゃちさが目立つだけでとうてい及ばない。本作は、日本映画が世界に出て行くひとつの道を示したものと言える。

 『13人の刺客』というタイトルから、赤穂浪士の『47人の刺客』を思い出したが、それとはまったくべつの筋立て設定であった。こちらの方がほんとうの「刺客」であろう。江戸時代といえど、ただ漠然と描き出すのではなく、江戸末期、明治に近い時代のできごととして、まさに「ラストサムライ」たちの生き様を、リアルに描いたものと言える。

 選ばれる刺客たちの、キャスティングもよい。若い、あまり顔の知られてない俳優が並び、その若さが、エネルギーとはかなさを、江戸という閉じられた時代の闇にきらめかす。主役の役所広司の人柄を感じさせるサムライもいいし、その甥の山田孝之のマイケル・ジャクソン(笑)を思わせる風貌も抜きんでている。名もない山の民でありながら、重要な役どころとなる伊勢谷友介の伸びやかな体全体を使ったパフォーマンスも魅惑的だ。また、平幹次郎、松本幸四郎、松方弘樹など、かつての時代劇のスターたちが、脇を支えるのも、本作を安定させる。

 そしてそれだけの「正義の味方」にたったひとりで対する「悪役」、稲垣吾郎は大したものだ。役が役だけに、ファンは減るかもしれないが(笑)、そういうリスクを取るのは、役者として大成への道である。

 もうひとつ、本作がただのエンターテインメントに終わらず芸術作品となり得ているのは、物語を少しズラしてみせる、脱構築である。それゆえ、「肝心なところで映画を壊している」などという、俗なドラマにとらわれた観客の感想がまま聞かれる。脱構築とは、覚めた目で物語をとらえることでもある。三池崇史は、どうもそういうものを心得た監督と見た。





2010年9月27日月曜日

私の政治観

 政治や経済問題は、時代劇とはちがうので、勧善懲悪ではない。しかし、ある種の論者の態度は、時代劇の正義の味方のそれである。そんななかで、いわゆる市井の人間は、なにを信じたらいいのか。政治、経済の基礎の「リテラシー」を養ったうえで、自分の考えで判断するしかない。たとえば、日本の政権が自民党から民主党に変わったが、それは、自民党政権が経済的に行き詰まった結果というより、国民自身が「変化」を求めた結果に過ぎないと書いていた野口悠紀雄氏の意見に頷ける。
自民党にも「リベラルな」若手議員はいるが、もういわゆる「土建屋政治」にはうんざりである。民主党内でも、それをひきずっているのが、小沢派と思われる。

今度の尖閣諸島事件を巡っての中国側に対応する意見として、鳩山由起夫前首相が、「私なら、中国側とうまく話し合うことができた」と言っているそうだが、もしそう思うなら、他人事のように言わずに、そういう地位になくても、なんとか手を貸すべきではないのか? だいたい、鳩山由起夫氏は、小沢一郎が嫌いだったはずである(笑)。しかし、今は、小沢側に寄り添っている。それで思い出すのは、「政敵の」(?)弟、鳩山邦夫氏が、「兄は態度をころころ変える」と、書籍だったか、週刊誌だかで話していたことを思い出す。そのときは、鳩山由紀夫支持だったので、弟のひがみぐらいにしか思っていなかったが、今になると、その言葉をしばしば思い出す。

もともと、尖閣諸島が中国に属していたという、歴史的事実は一度もないらしい。中国が自国の領土であると主張している根拠は、尖閣諸島が台湾のものである→台湾は自国に一地方→ゆえに、自国のもの、という論理らしい。それも、その付近の海底に、天然資源が埋蔵されていることがわかる以前は、なんら主張はしていなかったらしい。こういう動きは、クェートへ侵攻した、サダム・フセイン政権当時のイラクを思わせる。

そういうむちゃくちゃな論理を振り回す政権(国とは言うまい。何億もの国民を、すべて「悪」として、憎むのはよくない)に対しては、やはり、岡田克也幹事長の、「中国は大きく自らの利益を損なった。世界に中国がどういう国かを発信した」という態度は正しいと思う。

それにしても、Twitterの、9月14日午前10付けの。ケータイから(笑)の「つぶやき」で、鳩山由紀夫氏が、「代表選挙の応援団を見ていると、官僚出身、元アナウンサー、政経塾出身、弁護士は菅総理側が多いように思う。一方の小沢元幹事長側には一匹狼的な議員が多い。偶然だろうか。私には覚悟の差のような気がしてならない」などと、書いていたが、これは、論理的にどうなんでしょう? と思わざるを得ない。「官僚出身や元アナウンサーや政経塾出身や弁護士」であることと、「一匹狼であること」は、矛盾しないし、「覚悟がない」ということにもならない。こういうのは、ただのイメージである。これに反論するには、「 『スポーツ選手や議員の経験が初めての女性たち』なら、山積みする難題を裁いていけるのでしょうか?」である。いかにもキャリアが悪いように言ってるが、そのキャリアを積み上げるには、それなりの努力もいったのではないでしょうか。

いわゆる「小沢派」の新人議員の多くは、小沢氏の言うなりになりそうな人々である。小沢一郎に期待している人々は、強い政治家、腹芸が得意な政治家、ダーティー・ヒーローが、なにか一発で胸の空くように、難題(経済も政治も)を解決してくれると信じているのである。絶対王政ではあるまいに、ひとりの指導者でなんとかできる世の中ではない。だいたい、政治家はサービス業ではない。なにかしてくれるのを待つのではなく、自らもなにができるか、考えるべきだろう。私は、草の根運動から出た人が首相なる世の中は、黒人が大統領になる世の中と同じように、やっと実現されたと思っている。

管伸子夫人ではないが、「恐竜の時代は終わらせてもらいたい」。

2010年9月21日火曜日

『恋』──日本の長編にありがちな枚数稼ぎの「情痴小説」

 『恋』小池真理子(新潮文庫)
 
 
 かなりの長さで、物語が破綻なく書かれてはある。一見「力作」である。しかし、これを外国語、たとえば、英語やフランス語に翻訳し、世界に出せるか? 出したら、たんなる三文小説だろう。日本の長編小説にありがちなパターンであるが、無駄な描写でいたずらに枚数を稼いでいる感がある。本作は400字詰め原稿用紙に換算して1000枚ほどだと思うが、「情報量」は100枚程度のものである。 

 どの登場人物も、「物語」を語るための「道具」でしかなく、実際に生きている感じがしないし、共感もできない。本作をミステリーとして引っ張っていくサスペンス=「秘密」は、最後まで意味ありげなのであるが、その「秘密」は意外でもなんでもなく、誰でも予想のつく凡庸なものである。 

 70年時代とその時代を生きた人々を題材にしたということであれば、藤原伊織の『テロリストのパラソル』の方が、文学としてリアリティがある。 
  
 「浅間山荘事件」が時代背景としてあり、まるで関係あるかのように書き始められているが、あの「歴史的な事件」について、たとえフィクションでもなにか作者なりの見方があるのか、そういう興味で読み進んでいったが、結局、それは、「アクセサリー」にすぎなかった。作者がその世代に属し、それに拘りたいのだろうが、実際には、そこまで踏み込んでいない。ただ、これを情痴小説と見れば、それなりの鑑賞には耐えうる。 


2010年9月14日火曜日

『悪人』──地獄のない地獄

樹木希林を除いて、本作の登場人物は、どれも抽象的である。いかにも「現代日本の地方に生きる若者の孤独」を描いたかのようでありながら、それは、ニュースや、それこそ、ネットで「見たかのような」図である。それぞれの俳優が、いかに、悲しみを表現しようと、それはひとつの「典型」にすぎなくて、リアルなものはなにもない。
というのも、リアルとは、その人にしか持ち得ない、その人の肉体でしか説明できないなにかであるからだ。
ここにあるのは、ただの風俗である。それも、風俗という名の抽象でしかない。それにかろうじて実態を与えているのは、俳優、樹木希林の存在である。この人は、いかなる抽象をも拒む肉体を持っている。それは俳優としての資質である。この人のように、まず抽象を拒むことから作品というのは始まるのである。
深津絵里が、カナダの映画祭で賞をとったそうであるが、やはり抽象であることに変わりはない(むしろ賞は、樹木希林に与えられるべきであったであろう)。こういう実態のない人物を演じていて気持ち悪くならないのだろうか?
だいたいが、原作の吉田修一自体が、そういう「典型としての風俗」を描く作家である。ここには、車谷長吉が達したような「地獄」は見あたらず、どんな事件が起きても人は心を動かされない。

2010年9月10日金曜日

『脳がヨロコブ生き方』──好奇心こそ宝

『脳がヨロコブ生き方』(茂木健一郎著 ヒカルランド 2010年8月刊) 

 自己啓発系の著書が多いように思われる茂木健一郎であるが、本書は題名はその流れながら、その系統の本ではない(出版社は、氏の「デビュー作」を出してくれた編集者が独立して作った会社だそうで、「恩返し本」のようである。そのためか、氏の「知名度の高い本」の題名を利用して売ろうとしているのだろうが、それはむしろ逆効果になっているかもしれない)。これは、氏のブログをまとめた本であるが、ありがちな、私生活、それも、一般の読者には縁のないような、「セレブな日々」を垂れ流しに綴ったものでもない。

 いわば、日々の思考のエキスのようなものが、加工を加えず自然のままに綴られている。それゆえ、なにかのテーマのもと、全体を構築していくような文章ではない。意外にも詩的な言葉が美しく流れていく。

 そのなかに、われわれがインスパイアされるものが多々ある。そこには氏の、フェアな姿勢が自ずと現れている。体系的な哲学書を読むような充実感はないが、頭を働かせるとっかかりにはなる。氏のルーティンに添うことによって、われわれ読書は、おのれのルーティンを計画できるのではないか。

 文章には、人格のすべてが表れる。本書から窺われるのは、氏の謙虚で良心的な人柄であり、好奇心こそ宝という思想のベースである。

 1日1日のブログを収録したものではあるが、日付はない。それだけでも、どこか爽やかだ。



2010年9月7日火曜日

『読んでいない本について堂々と語る方法』──しかし本書だけは読了してしまう(苦笑)魅惑の書

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著 大浦康介訳 筑摩書房 2008年刊) 


 題名を見て、正直なハナシ、「そんな方法があれば……」と、「ワラにもすがる思いで」(笑)、本書を手に取った人も多いのではないか。なにを隠そう、私もその1人である。本の体裁を見ればわかるとおり、本書は、「実用書」ではない。れっきとしたテクスト論書である(ポストモダン系)。それも、著者の専門である、精神分析理論をもとに「論じている」。


 しかし考えてみれば、精神分析は、読書体験を論じるのに、かっこうの手法である。本書の読者は、あの、きわめてあいまいな、読書という体験を、すっきりと分析してもらえ、しかも、「そうか、これからも、しゃかりきになって読む必要はないんだ」と元気づけられる。そのうえ、矛盾するが、どんな難解な本にも挑戦してみようという勇気も与えられる。

 「読まない本について堂々と語っている」人たちの例が、巷のハウ・ツー本のような、そのへんのオジサン、オバサンではない。ポール・ヴァレリーだったり、モンテーニュだったりする。そうか、あの偉人も、そうであったか……。

 

 世のビジネス書は、速読だの多読だの、ごくろうなことである。これは、ひとえに、「読書体験」たるものの、認識が浅いからである。


 重箱型学者を嗤っているかのような胸のすくような本を書くのは、さすが、フランス人である。しかし、翻訳書であるかぎりは、どんなにすばらしい内容も、訳文ひとつでつまらなくもなる。本書がおもしろいのは、当然ながら、訳がいいからである。


 頭がよくなった(実際なっていると思う)ような気分になれて、すいすい読み進めてしまえて、これからは読んでない本についても堂々と語れる……こんな本を「誰にも教えたくない」(笑)と思うのは、どこかのレビュアーさんも書かれていたとおりである。バイヤール+大浦康介訳本は、ほかのも読んでみたくなる。




2010年8月3日火曜日

『ソルト』──マット・デイモンを超えた?

 今どき、CIAとかスパイとか言っても、どうせいつものパターンだろうと映画館に向かったが、一応「か弱き女」のアンジェリーナ、ここまでヤルかと、驚くやら感心するやら。

 つい先日、アメリカとロシアで、ほんもののスパイ交換劇があったばかりだが、そういうものも吹っ飛んでしまうほど、ハードさがすごい。しかも、この時代に、なんでスパイ?とか思うが、なるほど、そういうモチベーション、状況があったのかと、これまた納得。

 アンジェリーナのタフさに比べたら、ジェイソン・ボーンのマット・デイモンなど、なにもしていないに等しい。どんなに絶望的な状況でも、サバイバルできないこともないかもな、と、スパイでもないのに、希望を抱かせられる(笑)。

 暑気払いに、ぜひ、本作を観に映画館に足を運ばれることをオススメします。

2010年7月24日土曜日

シンデレラは、オバサンだけにしてほしい

 アメリカでは、11歳の女の子が、タレントスカウト番組に出るつもりで、Webカメラの前で、いわゆるワルのいかした女のマネをして、四文字ワードを乱発し、挑発するシナを作って、YouTubeかなんか、そういったネット上のサイトに投稿した。これを見ただけでも、かなりお馬鹿な女の子ということがすぐわかり、ネット上のちょっとしたワルなら「からかってやろう」という気になったのかもしれない。

 あれよ、あれよというまに、ネット中を、その動画がめぐり、どこのどいつかも探られて、実名、電話番号なども晒された。これでもまだ覚めない女の子は、「アタシがパーフェクトだから、嫉妬された」などと、またネット動画で言ったもんだから、さらに、攻撃にさらされ、「おまえはブスだ!」などと、悪口を言われ、「2ちゃん」ならぬ、「4ちゃん」(アメリカでは、「4ちゃん」というらしい。どっちが先かはわからない)の餌食になってしまった。

 それでも、知らん顔を決め込めば、どうということもなかったのだが、そこへ、ウェブカメラに、アホな父親が、娘が泣いて抗議している背後に登場し、「おまら! サイバー・ポリスに逮捕させるぞ! このドアホウが!」とキレまくったので、さらに「笑いもの」になってしまった。

 その一部始終を「記録」しているサイトもある。さらに、それらをパロった人々の動画もあまた投稿されている。
 ……ったく、なんて時代になってしまったんだ。この、ハンドル名、ジェシー・スローター(11歳)の母親曰く、「娘はパソコンとウェブカメラを持っているけど、彼女の友だちもみんな持っている」。それで、いろいろ、カメラの前でシナを作ったりして、おとなのマネをして、プチ・セレブ気取りである。アメリカでは、そういうのが「普通」なのか? ただ、こういうお馬鹿な一家は、世界中、どこにでもいるだろう。ネットはそういうことまで、あぶり出してしまうんですね(笑)。一昔前の日本なら、『スター誕生』で、予選落ちで終わったような少女である。

 イギリスのタレントスカウト番組で、スーザン・ボイルは、いきなり世界的な歌手になった。アメリカにも、そういう番組があるらしい。でも、いきなりスターになるのは、苦労を積んだオバサンだけにしてほしい(笑)。

http://knowyourmeme.com/memes/jessi-slaughter-you-dun-goofd-the-consquences-will-never-be-the-same


2010年5月23日日曜日

『会計HACKS!』(小山龍介+山田真哉著)



 "hacks"とは、「問題をサクッと解決すること」。勉強、仕事、整理、時間……いろいろな"hacks"があった。とくに、小山龍介氏に注目しているが、ときに、氏自身が著者として名前を連ねていない本も、なんとかhacksと銘打たれていて、それらの本は、小山氏が関わっている本に比べて、キレ方が鈍いようにも思う。"hacks"シリーズが市民権を得てしまったので、各出版社は、どうしても、それに便乗してしまった方が「お得」と思っているのだろうか? そのあたりはよくわからない。  とにかく、"hacks"は、今流通している、勉強、仕事、時間についての、さまざまな問題を、それこそ、新しい実用と思想によって、「すっきり」した考え方と方法を提案してきた。効果はともあれ、新しい考え方に触れて、生きることが楽になった。つまり、煩わしい仕事や問題に楽しくおしゃれに取り組めるようになった。  さて、その"hacks"シリーズも、小山氏以外の著者による、「健康hacks」などが出て(小山氏以外の著作だと、氏の思想が十分に発揮されていないようなので、完全にhacksできていない。しかも、hacksは、テーマ選びも大切なのである)、そろそろテーマも頭打ちだろうと思っていたところに、本書が出た。「会計」!しかも、あの、山田真哉氏との共著。なるほど、そのテがあったかとうなり、目次もろくろく見ずにレジに走りました(笑)。  中身は当然、新たなhacks満載に決まっている。「会計」とhacksが結びついたところに、すでに本書の勝利は決まっている。会計がhacksなら、それは、「普通の読者」に関係ある、つまり、「家計」と「節約」について、新たな提案がしてあるに決まっている。ついでに、会計とはなにかも学べる。著者のサイトで、家計簿もダウンロードできる。まさに、お得感いっぱいのhacksであった。    どん欲で飽きっぽい読者は、本書を読み終わらないうちから次なる(小山氏の)hacksを待つ(笑)。

*******  「けふのお写真」は、家人の釜山みやげ、チマチョゴリの「ぷー子」ちゃんと。




2010年5月16日日曜日

『グリーン・ゾーン』

 映像がブレていたという評者がいらっしゃいましたが、ハンドカメラで臨場感を狙っているのだから、ブレるのがあたりまえでしょう(笑)。
 しかし、本作は決して「ドキュメンタリー」ではない。「ドキュメンタリー」とは、まったく異なったスタンスで作られている。伝えたいのは、なんらかの「メッセージ」ではない。「結果」が出てから作っても……などという評者もおられましたが(笑)、本作は、べつに、イラクの潔白を描こうとしたのでも、アメリカの悪巧みを描こうとしたのでもない。ただ、「戦場」を、21世紀の戦場を描こうした映画である。

 なんだ、戦争を描いて楽しむのか、けしからん。という意見は間違っている。そういうことを言い出したら、殺人を、レイプを、民族浄化を、エンターテインメント映画として描いたものはすべて「けしからん」ことになる。倫理的に正しい題材だけを選んでいたら、映画はべつの何かになってしまうだろう。

 そもそもの誤解は、エンターテインメントとはなにかということにある。それは、べつに、「あはは、あはは」と笑って観るものという意味ではない。
 フィクションとして人の想像力に訴えるものは、すべてエンターテインメントであり、その作品に対して、お金を払ってもよいと考えられる価値のあるものがエンターテインメントである。

 監督のポール・グリーングラスは、エンターテインメントの内実を、そのようにレベルアップした。彼の意図をよく理解して肉体化したマット・デイモンもしかり。

 本作は、もはや、旧式のアタマでは理解できない新しいエンターテインメントでもある。ほんもののイラク戦争帰還兵を90%起用した作りにも、それは現れている。

 さらに言うなら、そういうエンターテインメントでありながら、人の良心をテーマとして問う哲学にもなっている。

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...