2011年12月18日日曜日

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』──最先端のスパイ


『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』ブラッド・バード監督
 国と国の関係は複雑になり、そう簡単には、一国=敵にはならない時代になって久しいが、世の中、ワルモノがいるかぎり、スパイ映画のタネ=ネタはつきない。スパイ映画は、時代との勝負である。時代に遅れてしまったら、もう観客を惹きつけることができない。
 だが、49歳のトム・クルーズはやってくれる。007のように、美女と戯れるヒマもなく全力疾走する。それがすがすがしい。世界最高層のビルを、「素手」で、よじ登る、ハイテク+ローテクの、スイッチングも、ただ荒唐無稽に終わらないリアルさがある。さりげなく背景で、変装マスクが製造される科学的リアリティにも配慮が行き届いている。トムのチームメンバーとなる俳優たちの顔ぶれもフレッシュである。
 そして、毎度お馴染みの、オープニングのあのテーマ曲、アレンジも最先端の雰囲気を漂わせる。誰でもに、「スパイになりたい」と思わせる興奮の2時間である。それにしても、なぜ、イーサン・ハントは、ロシアの刑務所にいたのか? その「はじまり」も隙がない。

2011年12月12日月曜日

『京のおかず 四季のかんたんレシピ124』──プロが教える家庭料理の極意


『京のおかず 四季のかんたんレシピ124 』(村田吉弘著、阪急コミュケーションズ、2007年刊)

 料理研究家を研究しています(笑)。本書の村田吉弘氏は、老舗料亭の主人で、栄養士系の料理研究家とも、カリスマ主婦系の料理研究家とも違います。そこには、プロならではの、「判断」が働いています。私たち家庭人がほしいのは、「プロのレシピ」ではなく、「プロの判断」です。では、「プロの判断」とななにか? それは、簡単でおいしい料理を作る際、省いていいところと、手をかけた方がいいところを知ることです。
 俗に、東日本=濃い味付け、西日本=薄い味付け、というのは、必ずしもこの通りではないと思います。現に九州では、とても味付けが濃いです。これは、少しのおかずで、たくさんご飯を食べようとしたためなのか、どうかわかりませんが。とにかく、村田氏のレシピが平均的に薄味なのか濃い味なのか知りませんが、そこは、作り手が好みに変えればいいと思います。料理書のレシピというのは、水も調理道具も違う人たちが使うのだから、必ずしも守らなければならないというものではないと思います。では何を学ぶのか? それは、食材のとりあつかい方だと思います。とくに、京料理は季節感を大切にします。たとえば、冬ならば、ゆずを、大根の煮物などにあしらうだけで、どこか豊かな感じになります。本書は、著者も書いているように、肉、魚、野菜等、入れ替え自由で、124のレシピそのものが、それぞれ10倍に拡がる可能性を秘めているようです。
 日本の家庭の食卓は、こういうベース=基礎があって、そのうえで、イタリアンや中華を、そのときの気分で加えていけば、栄養面でも経済面でも、時間節約の面でも、合理的かと思います。
 本書は、いわゆる、写真付きの料理書ではありませんが、シンプルなものばかりなので、かえって写真がない方が、さっぱりしてわかりやすいとも思えます。

2011年12月6日火曜日

「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」──少年の清らかさ


「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(スティーブン・スピルバーグ監督)

 THE ADVENTURES OF TINTIN: THE SECRET OF THE UNICORN

 フランス人なら誰もが知っている、フランスのエスプリたっぷりのあの「タンタン」を、イギリス人俳優だけで演じている痛快さ。もしフランス人がフランス語で演じたら、たとえスピルバーグといえど、これほどの漫画っぽさは出せなかっただろう。これは「アニメ」ではなく、「漫画」である。古き良き、夢のある時代を匂わせつつ、紳士なセリフまわしで世界冒険に出なければならない。漫画の主人公は、「鉄人28号」(古くてごめん(笑))の正太郎クンといい、コドモなのに、職業を持っていたり、車の運転をしたり、ピストルを持っていたりする。すべて、「少年の夢」の世界である。

 わがタンタンもしかり。しかも、特ダネをたくさんものしている、有名なジャーナリスト。そんなはずはあり得ない(笑)。しかし、漫画というものは、アメリカの「カルヴィンとホッブス」しかり、少年がまるでおとなのようにふるまうものである。しかし、ではなぜ、おとなでなく、いつも少年が主人公なのか。それは、世界の清らかさを求めているからである。

 スピルバーグはそこのところをよく心得ていて、帆船が重要なテーマではあるが、間違っても、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のように、どこか薄汚く撮っていない。悪役の犯罪者も、すべて清らかなのである。
 そして、スピルバーグは世界的な巨匠になりながら、どこかの国の黒澤明のように(笑)巨匠然とはしていなくて、常にリスクを取っている。それでこそ、真の巨匠! 「犬目線」や「鳥目線」のデティールにも感心した。

2011年11月29日火曜日

『恋する原発』──凡庸


『恋する原発 』(高橋源一郎著、講談社、201111月刊)
 
 震災とアダルト・ヴィデオを結びつけることで、巷では、「不謹慎」などと、「話題沸騰」のせいで、掲載雑誌『群像』は、「完売御礼」となったそうであるが、皮肉にも、こういう時代であるから、なにもかも疑ってみる必要がある。果たして、「不謹慎」なる批判や、「話題沸騰」の状況、「完売御礼」の事態はどこから出てきたか? まあ、ありていにいってしまえば、書き手、売り手サイドから出てきたのではないですか?

 感心する点は、近松門左衛門の例を出すまでもなく、世間の事件をすぐに作品化してしまう根性である。そういう氏の態度にはいつも励まされるところがある。しかし、作品を読むかぎり、それだけであるような気もする。前作の、「お伽草子」(『新潮』2011年6月号)も、核時代のシェルターを題材にしたものであったが、果たして、120枚も必要だったのだろうか、というような内容であった。

 本作は、それよりさらに長い、380枚であるが、氏の多くの作品と同じように、水増し感が否めない。氏がモデルとしていると思われる、外国の、とくにアメリカのポストモダンの作家、ドナルド・バーセルミなどと比べると、いかにも日本的な、思想的体力のなさを、饒舌なおしゃべりの水増しでごまかしている感じがする。しかも氏の場合、さらにいけないのは、作品を閉じるにあたって、安っぽい感傷に収斂させてしまうことである。

 ただ、このようなとんでもない設定であっても、最後まで、同じ文体、物語の場を維持し、破綻していないのは、とりあえず、プロの仕事ではある。

2011年10月18日火曜日

『ブリッツ』__それでも紳士なステイサム


『ブリッツ』エリオット・レスター監督+ジェイソン・ステイサム主演

 連続警官殺し。突き詰めてみれば、悪の組織は内部に……てな、ありがちなアメリカ映画のようではない。犯人はワレている。一度は逮捕もされる。しかし、証拠不十分で釈放される。愉快犯のような犯人を、はみ出し暴力刑事と、ゲイの警部補が追い詰める──。
 今の世の中、法に則っていては、やっていけない。しかし、だからといって、絶望してヤケになっても何も解決しない。要は、頭を使え!
 はみ出しバイオレンス刑事のステイサムがクールだ。前作『メカニック』のクールな殺し屋より、こちらの方が似合っている。バイオレンスだけど、心に温かさと、まさにイギリス紳士のハートがほの見えるからだ。
 いま、一番、ホットでクールな俳優であると私は思う。
 
 BGMもホットでクールだ。


2011年9月24日土曜日

『いますぐ書け、の文章法』──ライター、それが問題だ

 『いますぐ書け、の文章法』(堀井憲一郎著、ちくま新書、2011910日刊)

 よく雑誌などで、ライターと呼ばれる人々の文章を読み、「ん?」と思う。「正しくない日本語」はともかく、「いますぐ、書いた」結果なのか、何を言ってるのかわからない。要するに、要を得ないのである。最初と最後では論旨が矛盾していることもままある。本書も例外ではない。本書の筆者は、15ページで、「大事なのは、自分の考えがきちんと伝わる文章を書くことである」と書いているが、では、129ページの章見出しにある、「文章で自己表現はできない」という主張とどう違うのか? 自分の考えがきちんと伝わる文章=自己表現ではないのか? 
 ライターであれ、文学の作家であれ、普通の人であれ、きちんとした文章を書かなければ、きちんと思考できないのである。きちんとした思考のできない頭で、いくら「いますぐ書いた」って同じところを堂々巡りするしかない。この筆者は、今は、「ライター」で食えているので、自分は間違ってもいないし、人にも教えられると思っているのだろうが、この種のライターは、いつだってスペアがあるので、いつまで続けられるかは、わからない。こういう粗い文章を読んで、これでいいのだと思ってしまう「アマチュアの」「ライター志望者」を作ってしまうことは害である。

 だいたい、この本を数行読んで、全然惹きつけられなかったのだから、本書のテーマである、人を惹きつける文章とはなっていないのは皮肉である。文は人なり。この人は、まともな本など読んでこなかったのだろう。

2011年9月22日木曜日

『表裏井上ひさし協奏曲』 ──DVの資料として非常におもしろい

『表裏井上ひさし協奏曲 』(西館好子著、牧野出版、2011年9月刊)

 私は、井上ひさしという作家にはなんの関心もない。ただ、この作家が、作家としては、いろいろきれいごとを書いたり発言したりしながら、それこそ「裏」では、オレは作家だ、書けないのはおまえのせいだ!と、妻を殴っていたという事実には、野次馬的な興味をそそられた。
 某作家のブログには、評論家の江藤淳もまた、妻を殴っていたと書かれていた。
 トルストイをもじっていえば、DV亭主のいる家庭は、どこも似てない……のかも。100歩譲って、DV亭主の立場に立てば(笑)、確かに、殴りたくなるような女は存在する。「私はかなり勝ち気で……」と書かれている、前井上夫人も、もしかしたら、井上ひさしにとって、殴りたくなる女だったかもしれない。殴っても殴っても、耐えている強さ、ふてぶてしさが、さらに暴力を加速する……なんてこともあったかもしれない。一方、もしかしたら、江藤夫人は、殴られても、これまた耐えてはいるが、態度はふてぶてしくなく、むしろ弱い女だったかもしれない。これはこれで、また殴りたくなる……。つまりは、外ではいい顔を見せ、家の中では、妻に腹いせする……。これはそのまま、弱い者イジメの構造である。
 夫が家のなかで原稿を書いている……同時に、妻も家で家事をしていたら、家は息苦しい空間となる。まあ、そんな場合でも、いろいろ処し方があるのだろうが、ついDVに走ってしまうような人は、もともとそういう素質を持っているのだろう。
 だから、夫選びに重々お気をつけください。

 本書は、その率直さゆえに、大変興味深い資料となっている。
 でもサ、なんか、別れても、「割れ鍋に閉じ蓋」って感じですけどね(笑)。

 余談:20年ほど前のことですが、遅筆の井上ひさしセンセイが、おそらく某文芸誌の正月号に、間に合わなかったゆえに、拙小説のデビュー作を掲載していただいたのではないかと思われるので、私としては、「ありがとー」なんですが……(笑)。

2011年9月8日木曜日

『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 』──なんとなく、ズレている


『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ) 』(武田徹著、2011年5月刊)

 まずジャーナリスティックな論考で大切なことは、それが書かれた時期である。というのも、思考というのは、ある現実があってはじめて可能となるからである。

 本書は、2002年に出版された本に「加筆、修正し」たものが、2006年に文庫になり、さらに、それを「改題し、加筆、修正され」、自分で書いたのではなく、「談話」を前書きとしたもので(末尾にそうあるが、日付の記述が誤解されやすい。私の解釈は違っているかもしれない。言えるのは、モト本は、10年近く前ということである。それは、本文の書かれ方からもすぐにわかる)、これはそのまま、「2011年論」となっていて、これ以外には、「2011年論」は見たらない。

 内容は、「1954年論」、「1957年論」、「1965年論」、「1970年論」「1974年論」、「1980年論」、「1986年論」、「1986年論」、「1999年論」、「2002年論」と題された、それぞれの時代の、「原子力」をめぐるキーアイテムを配した論考で構成されている。とにかく本書は、「2002年論」を最後に、実にお粗末な「2011年論」まで、間があいており、その間の、たとえば、「フランスのアレバ(使用済み核燃料再処理会社)」などの、きわめて現代的なキーワードに関するものはない。これが何を意味するか──。すなわち本書は、題材がタイムリーだったので、ちょっとした化粧(あまりにおざなりの化粧ではあるが)を施して、帯には「『反対派』も『推進派』も『歴史』を見よ」と大げさに書かれて売り出されたのである。「『天声人語』で話題の本」ともある。いまどき、こういう売り文句がなんらかの価値を保証するものかどうか……。「糸井重里氏、小飼弾氏はじめネット上でも反響続々」ともある。今どき、こうした名前が、どういう層を惹きつけうるのか。

 書かれた時代が古いから、「はじめに」に引用される評論家等も、「なんとなく、ズレている」。著者はいったい、右なのか、中道(左とは言うまい(笑))なのか? 「文芸」評論家の国家論を引用されてもね~……である。敗戦後の日本の発展が、原子力「だけ」で成り立ってきたわけでもあるまい。そこに、経済論は皆無である。
 Amazonのレビュアーのどなたかも言及されていたように、佐野眞一などの、大御所の論をちびちび取っての論でもある。

 しかし、ま、それなりに、おもしろい着眼点ではあるし、他人の論考も、援用や引用のために、よく読んでいるようなので、★3つ。

 一般的な印象としては、いまの原発推進の元凶とであるかのような、元読売テレビの社長だかの、柴田なにがしのことをあげつらったような本が、中公新書ラクレ(=読売)から出るかね~? というのはある。まず、岩波新書からには絶対に出ない内容と文章力である。

 著者が用いる「スイシン派」「ハンタイ派」という図式こそ危険視すべきだし、著者が掲げる「弱者最優先」という、いまどき、そのへんの政治家でも面はゆくて言えないような言説
をこそ、疑うべきであるとも思う。

2011年8月22日月曜日

『実力大競争時代の「超」勉強法』──用い方にご用心!


実力大競争時代の「超」勉強法』(野口悠紀雄著、幻冬舎、2011年3月刊)

 経済学ほど定説が定まらず、またいいかげんなことを言っても通る世界はないのではないだろうか? それとはあまり関係ないかも知れないが、英文法の世界も、何が正解なのか、際限のない世界だそうである。
 「野口悠紀雄」というブランドは、ピンからキリまでいる著者のうちでは、良心的で信頼もおける。だから、氏の勉強本はほとんど買ってきた。本書は、以前に講談社から出て、今は文庫本になっている『「超」勉強法』と同内容かなと思って、発売当時は素通りしてしまったのだが、知人に教えられて読んでみた。題名こそ同じものがついているが、内容は、さらに深く、同時に、経済学のアウトラインも学べるようになっている。勉強すること、何かを知りたいという欲望は、人間が本来持っている生存欲の一つであり、いくつになっても学び続けるべきだ。自分はこのように勉強している。……など、持てる情報等も気前よく公開していて共感できる。
 とくにモデル思考を推奨している点、戦略としての勉強を強調している点は、他の勉強本にはない、深い示唆である。
 しかしながら、勉強を推奨し、学力の落ちてきた日本の状況を憂慮し、詳細なデータを援用しながら世界の知的状況を紹介するのはいいが、氏の思想をそのまま受け入れるわけにはいかないようにも思う。氏は、ともすれば、学歴重視、ブルーカラー切り捨ての思想をよしとしているとも見受けられる。かなり納得のいく形で説明されているが、読み方をひとつ間違えれば、読者はどこかの大学院へ向かって突っ走らないともかぎらない。
 経済学はすばらしい学問であるが、しかし、世の中、経済学だけで成り立っているものでもなし、また、その経済学も奥が深いので、野口悠紀雄の説のみが正しいとも言えないだろう。こと、リカード説の援用はいいが、べつの人々は、マルクスこそ今必要だと言っているのである。ワタシ的には、野口氏が、あまり必要ないとした、微分的分析が、野口氏が重要視している「ソリューション」を求めるには必要だと思う。


2011年8月19日金曜日

本部リニューアルのお知らせ


本部をリニューアルし、連載小説をアップしました。
みてね。
*****
「お写真」は、「わん太の夏休み2011」。
豊川(とよがわ)の上流に沿って作られたドッグランは、砂を入れて遠浅にしていて、すばらしかった!


2011年8月15日月曜日

『マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術』──ザッカーバーグの時代


『マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術』( 桑原晃弥著、ソフトバンククリエイティブ、2011年7月刊)

 コンピュータはさまざまな段階において歴史を変えてきたが、本書を読むと、また一段階、べつの局面に変わったことがわかる。パーソナル・コンピューターとの関わりで歴史に残るのは、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、そして、マーク・ザッカーバーグだろう。この3人は、なるほど、パソコンによって巨額の富を築いたかもしれない。しかし、彼らの目的は、富ではなかったことに共通している。それは、世界を変えることへの、とてつもない情熱。そういうものが伝わってくる本である。
 ザッカーバーグはゲイツとジョブズをロールモデルとして育ってきた若者である。まだ20代の彼から教わることは多い。単にコンピューター世界だけでなく、CEOとしての経営も、超一流の経営者から学び、人材についても相当考え抜かれている。
 インターネットからいかに利益を得るか。それはもちろん、今後も生き残るための投資のための利益であるが、その秘訣の秘訣までは、本書のような「冊子」では軽くほのめかされている程度である。
 Facebookの使用はあくまで無料で、ダサい広告はない。ザッカーバーグが、グーグルからヘッドハンティングした、シェリル・サンドバーグ。彼女が発案した、「エンゲージメント広告」には、かなりの興味を持たされた。

2011年8月6日土曜日

『バビロンの陽光』──過酷なロードムービー

『バビロンの陽光』モハメド・アルダラジー監督

 なにもない砂漠、汚れた衣類、壊れた道具や機械、荒れ果てた街……。災害ではない。内戦である。内戦が起こっていた国である。虐殺が虐殺を呼び、人々の感情は、壊れながらも生き続け増殖する。憎しみ、絶望、悲しみ……それでも人は、希望を植え付けられ、生きさせられる──。
 サダム・フセインが逮捕されたあとのイラク。何百万人もの人々が虐殺されていた。集団墓地が何百もあり、肉親を捜して、人々の絶望の旅は続く。
 クルド語しか話せない祖母と、アラビア語も話せる少年の二人も、息子であり父である身内を捜す旅に出る。そこから映画は始まり、過酷な旅をゆく。ヒッチハイクの車もバスも、どうにか動いているにすぎない。砂埃が画面から舞ってくるようである。これもひとつの生に違いない。だが、なんという生なのか。バビロンを持つイラクは、かつては夢のような国であった。それが、廃墟のようになっている。いや、廃墟という言葉はまだ美しすぎる。悲惨な光景ではあるが、本編のテーマは、「悲惨」ではない。「夢」。かつてあった夢のようなものの幻影を見せる。そして、こんな状況でも、わんぱくであった少年は、おとなの顔になっている。

2011年7月15日金曜日

『ラスト・ターゲット』──突然の純文学

『ラスト・ターゲット』アントン・コルベイン監督

 本作は、エンターテインメント+ジョージ・クルーニーのかっこよさを期待していくと、なんか違うとはぐらかされた気持ちがすると思います。
 人生に嫌気がさしている殺し屋が、イタリアの小さな町に潜伏して、銃をカスタマイズする仕事をしている。そこで、清純な(?)娼婦に出会い、もしかしたら人生が変わるかもしれないと期待を抱く……という物語が淡々と描かれる。セリフも登場人物も少ない。陽気なはずのイタリアの町もどこか陰気くさい。ジョージ・クルーニーの表情も重苦しい。印象に残るのは、銃をカスタマイズする、つまりは、改造銃を作り上げる綿密な過程と依頼人の女と交わされる「専門用語」。
 観客をスカッとさせてくれるはずのクルーニーはいったい本作に何を求めたのか? うーーーん……志が高い!としか言いようがない。寡黙な主人公の日常を追い続けてドラマにしたフランスのロベール・ブレッソンの作品をも彷彿とさせる。
 邦題はひどいタイトルである。そこから観客の誤解が起きる。現代は、『The American』。Theが問題である。その町にただひとりしかいないアメリカ人。ときどき、イタリア語を話すクルーニー。見かけより硬派な男と見た。

 「おまけ」

 たまにネットでも、いわゆる「映画評論家」という人々のレビューを読むが、こういう時代になって、その型にはまったディスクール&エクリチュールが目立って、なんかズレてしまった感がある。本作評、映画.com 芝山幹郎氏しかり。

2011年7月14日木曜日

『ほんとうの復興』──脱原発社会への手引き

 『ほんとうの復興』(池田清彦、養老孟司著、新潮社、2011年6月刊)

菅首相が「脱原発社会をめざす」ということを表明した(2011/7/13)。ドイツのメルケル首相についで、非常に評価できる発言であると思う。まず国家の首長がどのような国家を目指すか表明することは、政治の根幹である。それに対して、メディアは、すぐに、原発のある自治体、具体的には、各町、村長らに、意見をうかがい、それを載せている。「賛否の声」などと言いながら、いちばんヒステリックな否定の声を見出しにとり、否定的意見ばかりを載せている。
果たしてこれらの、町、村長が、原発問題をどれほど深く理解し、行動しているのか。自分の町、村に、原発の建設を許したということは、いわゆる「賛成派」で、かつては、電力会社のいいなりになっていて、今頃、どちらについたらいいかわからず、「おらがの利益」を念頭に、玉虫色になっているのではないか。

本書は、養老孟司との共著ながら、基本的には脱原発なのだろうけれど、文章がしどろもどろで理解しにくい養老氏の部分はさておき、池田清彦の、「エネルギーは未来を決める」という論文は、菅首相の行き方を論理的に、代替エネルギーの可能性も、具体的なデータを交えながら、説明されている。福島第一原発で最も深刻な事実は、「地域社会という国民の生活根幹を破壊した」ということである。氏は言う。「人一人の命を救うために、社会システムが崩壊したらそれこそ大変である。個々の人の命は社会にとってはかけがえのあるものだ。しかし、崩壊した社会システムを元に戻すことはできない」。
「人が生きるということは単に命をつないでいることとは違う。生活基盤と地域社会の絆をすべて奪われ、復興のあてもない人々に、ただちに健康に被害がないし、誰も死ななかったのだから、原発は安全だ、などとどの面さげて言えるのか」

「原子力産業は、原発を止めたら国民生活は破壊するという脅しと、原発はきちんと動かせば最も安上がりな発電装置だという屁理屈で、原発の廃止を抵抗するだろう。計画停電などというのも、原発がなくなったら大変だ、という脅しの一種かもしれない」

そして、エネルギー利用の、短期、中期、長期的な具体案を提出している。決して単純な問題ではないが、ひとつひとつをじっくり検討し、冷静に対処していかなければならない。本書を読めば、菅首相が一見「迷走」と言われる態度となって表れている行動も理解できることと思う。

2011年7月4日月曜日

『2011年版 間違いだらけのクルマ選び』──震災後の車選び

 『2011年版 間違いだらけのクルマ選び』徳大寺有恒+島下泰久著(草思社 2011年6月刊)

 私は免許も、当然ながら、車も持ってない。しかし、車には関心があるので、徳大寺氏の本は愛読してきた。『間違いだらけ』シリーズも、前回で最後だと宣言されていたと思うが、今回本書の「復活」が新聞の宣伝に出ていて即購入して即読んだ。

 今度も読みごたえがあった。徳大寺氏は、文章がいいし、車、ひいては車産業に対する考え方もいい。今回、島下泰久氏を共著者に抜擢したのは、一部レビュアーから、徳大寺の本ではないような不満があがっていたが、本書をよく読めば納得がいく。「暮らしの手帖」社ではないが、本書のレビューはすべて、レビューする車をレビュアーが試乗してレビューしている。あたりまえといえばあたりまえだが、つまり、「実際使ってみて……」ということだ。こういうエネルギーのいる仕事を、70歳すぎた徳大寺氏が一人でこなすは大変だし、責任を持とうとすればいっそうできないはずである。そこで、氏の考え方と近く、また誠実な仕事ぶりが認められた、いわば、「後継者」のような島下氏が抜擢されたというわけだ。従って、それぞれの車のレビューは島下氏が行っている。

 しかし、私も徳大寺の文章が読みたいので、最初の「総評」とか、コラムなどを探して読んだ。本書で関心したのは、「震災後の車選び」という観点に立っていることである。それはいかなることかといえば、災害時に車はどう役立つか、そして、産業としての車はどうあるべきか。そういう考え方で車を点検しているところがすばらしい。

 なかで驚いたのは、日産のマーチはなにから何までタイで作り輸入車として販売しているということである。このようにして日本車は劣化のスパイラルに入っていかないともかぎらない。これではいけないと、本書が出たのだと思う。

 そして、ほしくなったのは、コンパクトカーなのに、高級車並の質とメカニズム、セキュリティを持った、フォルクスワーゲン社のポロである。

 レビュアーのなかに、本書(1400円)が高いという方がいらっしゃったが、本の値段がどのようにつけられるか、あまりご存じないようである。本書は、薄利多売を考えていない、版元は、どちらかといえば、硬い内容の本を出している草思社である。この出版社は、大出版社ではない。だから、当然値段は、総費用を部数で割った数字を元にしていて、多少割高にならざるを得ない。企業の宣伝のモーター雑誌とは違うのである。

2011年2月6日日曜日

2011年1月9日日曜日

学識とはイヤミである? ──蓮實重彥『随想』

蓮實重彥『随想』(新潮社 2010年8月刊)

「高度消費社会」、あるいは、「高度消費社会」の荒波の上に、「とりあえず」は浮上して、まっとうな啓蒙論客を気取って、イタリアンなどを編集者と食べて、ああうまかった、とTwitterで書いて、それで韜晦したかのように悦にいっているかに見える「ブログの書き手」への反論も、周到なリファランスを援用しつつ、さりげなく、してみせる、蓮實節は、健在である。 

本書を読めば、「脳ってなに?」「勉強ってなに?」「生きるってなに?」という疑問がめきめき頭をもたげ、「高度消費社会を勝ち抜く」ために、世間に溢れている指南書も、クズに思える。 

かなりイヤミでは、ある。しかし、もともと、イヤミとは、学識のことである。世界のまっとうな学者の論考は、こうした細かいリファランスに満ちている。マルクス『資本論』しかり。 

まあ、「ブログの書き手」としか、認識されていないのではあるが、こうして反論を何ページにもわたってしてもらえただけでもよかったですね、内田樹サン、てとこでしょうか(笑)。

さらにディープに……こちゃへ↓

「評論的なるものをめぐって」を見てね↓




行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...