2011年10月18日火曜日

『ブリッツ』__それでも紳士なステイサム


『ブリッツ』エリオット・レスター監督+ジェイソン・ステイサム主演

 連続警官殺し。突き詰めてみれば、悪の組織は内部に……てな、ありがちなアメリカ映画のようではない。犯人はワレている。一度は逮捕もされる。しかし、証拠不十分で釈放される。愉快犯のような犯人を、はみ出し暴力刑事と、ゲイの警部補が追い詰める──。
 今の世の中、法に則っていては、やっていけない。しかし、だからといって、絶望してヤケになっても何も解決しない。要は、頭を使え!
 はみ出しバイオレンス刑事のステイサムがクールだ。前作『メカニック』のクールな殺し屋より、こちらの方が似合っている。バイオレンスだけど、心に温かさと、まさにイギリス紳士のハートがほの見えるからだ。
 いま、一番、ホットでクールな俳優であると私は思う。
 
 BGMもホットでクールだ。


2011年9月24日土曜日

『いますぐ書け、の文章法』──ライター、それが問題だ

 『いますぐ書け、の文章法』(堀井憲一郎著、ちくま新書、2011910日刊)

 よく雑誌などで、ライターと呼ばれる人々の文章を読み、「ん?」と思う。「正しくない日本語」はともかく、「いますぐ、書いた」結果なのか、何を言ってるのかわからない。要するに、要を得ないのである。最初と最後では論旨が矛盾していることもままある。本書も例外ではない。本書の筆者は、15ページで、「大事なのは、自分の考えがきちんと伝わる文章を書くことである」と書いているが、では、129ページの章見出しにある、「文章で自己表現はできない」という主張とどう違うのか? 自分の考えがきちんと伝わる文章=自己表現ではないのか? 
 ライターであれ、文学の作家であれ、普通の人であれ、きちんとした文章を書かなければ、きちんと思考できないのである。きちんとした思考のできない頭で、いくら「いますぐ書いた」って同じところを堂々巡りするしかない。この筆者は、今は、「ライター」で食えているので、自分は間違ってもいないし、人にも教えられると思っているのだろうが、この種のライターは、いつだってスペアがあるので、いつまで続けられるかは、わからない。こういう粗い文章を読んで、これでいいのだと思ってしまう「アマチュアの」「ライター志望者」を作ってしまうことは害である。

 だいたい、この本を数行読んで、全然惹きつけられなかったのだから、本書のテーマである、人を惹きつける文章とはなっていないのは皮肉である。文は人なり。この人は、まともな本など読んでこなかったのだろう。

2011年9月22日木曜日

『表裏井上ひさし協奏曲』 ──DVの資料として非常におもしろい

『表裏井上ひさし協奏曲 』(西館好子著、牧野出版、2011年9月刊)

 私は、井上ひさしという作家にはなんの関心もない。ただ、この作家が、作家としては、いろいろきれいごとを書いたり発言したりしながら、それこそ「裏」では、オレは作家だ、書けないのはおまえのせいだ!と、妻を殴っていたという事実には、野次馬的な興味をそそられた。
 某作家のブログには、評論家の江藤淳もまた、妻を殴っていたと書かれていた。
 トルストイをもじっていえば、DV亭主のいる家庭は、どこも似てない……のかも。100歩譲って、DV亭主の立場に立てば(笑)、確かに、殴りたくなるような女は存在する。「私はかなり勝ち気で……」と書かれている、前井上夫人も、もしかしたら、井上ひさしにとって、殴りたくなる女だったかもしれない。殴っても殴っても、耐えている強さ、ふてぶてしさが、さらに暴力を加速する……なんてこともあったかもしれない。一方、もしかしたら、江藤夫人は、殴られても、これまた耐えてはいるが、態度はふてぶてしくなく、むしろ弱い女だったかもしれない。これはこれで、また殴りたくなる……。つまりは、外ではいい顔を見せ、家の中では、妻に腹いせする……。これはそのまま、弱い者イジメの構造である。
 夫が家のなかで原稿を書いている……同時に、妻も家で家事をしていたら、家は息苦しい空間となる。まあ、そんな場合でも、いろいろ処し方があるのだろうが、ついDVに走ってしまうような人は、もともとそういう素質を持っているのだろう。
 だから、夫選びに重々お気をつけください。

 本書は、その率直さゆえに、大変興味深い資料となっている。
 でもサ、なんか、別れても、「割れ鍋に閉じ蓋」って感じですけどね(笑)。

 余談:20年ほど前のことですが、遅筆の井上ひさしセンセイが、おそらく某文芸誌の正月号に、間に合わなかったゆえに、拙小説のデビュー作を掲載していただいたのではないかと思われるので、私としては、「ありがとー」なんですが……(笑)。

2011年9月8日木曜日

『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 』──なんとなく、ズレている


『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ) 』(武田徹著、2011年5月刊)

 まずジャーナリスティックな論考で大切なことは、それが書かれた時期である。というのも、思考というのは、ある現実があってはじめて可能となるからである。

 本書は、2002年に出版された本に「加筆、修正し」たものが、2006年に文庫になり、さらに、それを「改題し、加筆、修正され」、自分で書いたのではなく、「談話」を前書きとしたもので(末尾にそうあるが、日付の記述が誤解されやすい。私の解釈は違っているかもしれない。言えるのは、モト本は、10年近く前ということである。それは、本文の書かれ方からもすぐにわかる)、これはそのまま、「2011年論」となっていて、これ以外には、「2011年論」は見たらない。

 内容は、「1954年論」、「1957年論」、「1965年論」、「1970年論」「1974年論」、「1980年論」、「1986年論」、「1986年論」、「1999年論」、「2002年論」と題された、それぞれの時代の、「原子力」をめぐるキーアイテムを配した論考で構成されている。とにかく本書は、「2002年論」を最後に、実にお粗末な「2011年論」まで、間があいており、その間の、たとえば、「フランスのアレバ(使用済み核燃料再処理会社)」などの、きわめて現代的なキーワードに関するものはない。これが何を意味するか──。すなわち本書は、題材がタイムリーだったので、ちょっとした化粧(あまりにおざなりの化粧ではあるが)を施して、帯には「『反対派』も『推進派』も『歴史』を見よ」と大げさに書かれて売り出されたのである。「『天声人語』で話題の本」ともある。いまどき、こういう売り文句がなんらかの価値を保証するものかどうか……。「糸井重里氏、小飼弾氏はじめネット上でも反響続々」ともある。今どき、こうした名前が、どういう層を惹きつけうるのか。

 書かれた時代が古いから、「はじめに」に引用される評論家等も、「なんとなく、ズレている」。著者はいったい、右なのか、中道(左とは言うまい(笑))なのか? 「文芸」評論家の国家論を引用されてもね~……である。敗戦後の日本の発展が、原子力「だけ」で成り立ってきたわけでもあるまい。そこに、経済論は皆無である。
 Amazonのレビュアーのどなたかも言及されていたように、佐野眞一などの、大御所の論をちびちび取っての論でもある。

 しかし、ま、それなりに、おもしろい着眼点ではあるし、他人の論考も、援用や引用のために、よく読んでいるようなので、★3つ。

 一般的な印象としては、いまの原発推進の元凶とであるかのような、元読売テレビの社長だかの、柴田なにがしのことをあげつらったような本が、中公新書ラクレ(=読売)から出るかね~? というのはある。まず、岩波新書からには絶対に出ない内容と文章力である。

 著者が用いる「スイシン派」「ハンタイ派」という図式こそ危険視すべきだし、著者が掲げる「弱者最優先」という、いまどき、そのへんの政治家でも面はゆくて言えないような言説
をこそ、疑うべきであるとも思う。

2011年8月22日月曜日

『実力大競争時代の「超」勉強法』──用い方にご用心!


実力大競争時代の「超」勉強法』(野口悠紀雄著、幻冬舎、2011年3月刊)

 経済学ほど定説が定まらず、またいいかげんなことを言っても通る世界はないのではないだろうか? それとはあまり関係ないかも知れないが、英文法の世界も、何が正解なのか、際限のない世界だそうである。
 「野口悠紀雄」というブランドは、ピンからキリまでいる著者のうちでは、良心的で信頼もおける。だから、氏の勉強本はほとんど買ってきた。本書は、以前に講談社から出て、今は文庫本になっている『「超」勉強法』と同内容かなと思って、発売当時は素通りしてしまったのだが、知人に教えられて読んでみた。題名こそ同じものがついているが、内容は、さらに深く、同時に、経済学のアウトラインも学べるようになっている。勉強すること、何かを知りたいという欲望は、人間が本来持っている生存欲の一つであり、いくつになっても学び続けるべきだ。自分はこのように勉強している。……など、持てる情報等も気前よく公開していて共感できる。
 とくにモデル思考を推奨している点、戦略としての勉強を強調している点は、他の勉強本にはない、深い示唆である。
 しかしながら、勉強を推奨し、学力の落ちてきた日本の状況を憂慮し、詳細なデータを援用しながら世界の知的状況を紹介するのはいいが、氏の思想をそのまま受け入れるわけにはいかないようにも思う。氏は、ともすれば、学歴重視、ブルーカラー切り捨ての思想をよしとしているとも見受けられる。かなり納得のいく形で説明されているが、読み方をひとつ間違えれば、読者はどこかの大学院へ向かって突っ走らないともかぎらない。
 経済学はすばらしい学問であるが、しかし、世の中、経済学だけで成り立っているものでもなし、また、その経済学も奥が深いので、野口悠紀雄の説のみが正しいとも言えないだろう。こと、リカード説の援用はいいが、べつの人々は、マルクスこそ今必要だと言っているのである。ワタシ的には、野口氏が、あまり必要ないとした、微分的分析が、野口氏が重要視している「ソリューション」を求めるには必要だと思う。


2011年8月19日金曜日

本部リニューアルのお知らせ


本部をリニューアルし、連載小説をアップしました。
みてね。
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「お写真」は、「わん太の夏休み2011」。
豊川(とよがわ)の上流に沿って作られたドッグランは、砂を入れて遠浅にしていて、すばらしかった!


2011年8月15日月曜日

『マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術』──ザッカーバーグの時代


『マーク・ザッカーバーグ 史上最速の仕事術』( 桑原晃弥著、ソフトバンククリエイティブ、2011年7月刊)

 コンピュータはさまざまな段階において歴史を変えてきたが、本書を読むと、また一段階、べつの局面に変わったことがわかる。パーソナル・コンピューターとの関わりで歴史に残るのは、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、そして、マーク・ザッカーバーグだろう。この3人は、なるほど、パソコンによって巨額の富を築いたかもしれない。しかし、彼らの目的は、富ではなかったことに共通している。それは、世界を変えることへの、とてつもない情熱。そういうものが伝わってくる本である。
 ザッカーバーグはゲイツとジョブズをロールモデルとして育ってきた若者である。まだ20代の彼から教わることは多い。単にコンピューター世界だけでなく、CEOとしての経営も、超一流の経営者から学び、人材についても相当考え抜かれている。
 インターネットからいかに利益を得るか。それはもちろん、今後も生き残るための投資のための利益であるが、その秘訣の秘訣までは、本書のような「冊子」では軽くほのめかされている程度である。
 Facebookの使用はあくまで無料で、ダサい広告はない。ザッカーバーグが、グーグルからヘッドハンティングした、シェリル・サンドバーグ。彼女が発案した、「エンゲージメント広告」には、かなりの興味を持たされた。

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...