2020年6月17日水曜日

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散文と韻文という分類がほんとうで、「行わけ」は形式ではないんです。それが証拠に、レオパルディの散文詩は、英語版では、勝手に行わけされています(笑)。ちなみに、T.S.エリオットは、ボードレールは、詩より散文の方がすぐれているとも言っている。この場合、ほんとうの散文です。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=103869020





2020年3月27日金曜日

【詩】「賢木(さかき)」

「賢木(さかき)」

きみが私のなかに見るものは小暗い森、
妖精もいなければこびともいず小鳩も小鳥も消えてしまった、
誰かが魔法をかけたのだ、
いまは時間だけが凝結しひとの声さえ霊となりはてた次元。
私のなかにきみが見るものは物語の切れ端のそのまたきれはし、
闇さえまだ明るさをもっている東西南北、
すべての棺を集めて魔女たちが嗚咽する姿、
生ほど忌まわしいものはないと光はささやく。
私のなかにきみが見るものは焔の分身、
死の床に横たわっているのは私、
おのれの夢の灰に埋もれ、青春だと思っていたものが、
永遠と差し違えて見せられる焔だ。
 神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへておれるさか木ぞ
 少女子(をとめこ)があたりと思へばさか木葉の香をなつかしみおれるさか木ぞ








2020年3月26日木曜日

【映画】『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』──三島由紀夫という「現代思想」

『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』(豊島圭介監督、2020年)

三島由紀夫は「当時」、ノーベル賞をうんぬんされる世界的作家(実際、カワバタではなく、彼が取るべきだった)であるのだが、全共闘が突然電話をかけてきて、討論をやりたいといい、快く引き受け、1000人の「敵」が、招いたにもかかわらず、会場(東大の900番教室)の入り口には、三島をゴリラに見立てた絵のある看板、そのほか、とうてい「おとな」とは思えぬ態度にもかかわらず、一人一人の言っていることを誠実に聞き、ていねいな言葉で応答している。これは、完全に三島の勝ちなのである。ただ、三島は、ほんとうに右翼だったのだろうか? 彼の言葉を聞いていると、逆説に逆説が重ねられているようにも思う。
 小林秀雄の講演をCDで聞いていて、聴講の学生が質問する。「先生は、天皇についてどう思いますか?」「なに? 天皇? きみは天皇を身近に感じる?」「いいえ」「だったら、身近に感じるものの話をしなさい。そんな自分が身近に感じられないものの話をしたってなんの意味もない」
 しかし、三島由紀夫は、学習院を首席で出た時、昭和天皇から直に金時計をもらっている。昭和天皇は彼にとっては身近な人だったに違いない。それと、観念としての天皇とか、天皇制うんぬんを付き合わせてみてもしかたがない。今では、吉田裕著『昭和天皇』によって、昭和天皇は、自分の意志をもって統治していたことが明らかにされている。そして、「そこ」へ行き着くまでは、政府=軍部という「権力」が存在していた。戦後はその「構造」が見えなくなった。それは「安保」という陰の存在のせいでもある。その点を、「全共闘」のオボッチャマ集団は、「革命」などという夢を見て「暴れた」のである。
 三島は三島で、昭和天皇への憧憬を、思想にまでもっていく。問題はその作り方で、三島は世界文学の教養があったから、自然、「現代思想」にならざるを得なかった。それで、「ぼくの大っ嫌いなサルトルの『存在と無』にこんな言葉がある──」なことを言う。ちゃんと読んでいるのである。彼は彼なりに、サルトルを超えようとしていた。そして、自衛隊への突っ込みも、「クーデターの要求」は表向きで、実は「テロ」だった──。彼以外の日本人のすべては右も左も、思想的には近代を迎えられず、三島のみが、構造主義のあたりに来ていた──。誰も理解してくれず、たった一人で楯の会というミニチュア軍隊を作り、「革命」を「演じよう」とした。結果はわかっていた。
 本作でTBSが録画していた、全共闘との討論は、自衛隊に突っ込む一日半前である。あのもの柔らかで清々しい表情からは、いかなる決意も窺われない。そして本編は、最後の「事件」はごくあっさりと伝えている。しかし、私は新聞が伝えた、生首が転がっている写真をいまだに覚えている。その生首こそが、「モノ」であり、全共闘の学生たちは、ついぞモノをつかむ前に、言葉(観念)の前に生き延び、普通のジジイになっていったようだ。そういう事実を、まざまざと見せてくれるドキュメンタリーである。
 それにしても、この討論には、女性の存在は皆無である。まあ、マッチョ集団とも言える集団ではある。



2019年9月17日火曜日

【詩】「アンリ・ベルクソン」

「アンリ・ベルクソン」

時間の中で、言葉と空間の間に吊られ
意識を取り出そうと夢見る。同時期フロイトと、
同じものを見つめ、
魂のありかを探る。
結局、肉体と魂は平行していないことを
発見し、みずからのなきがらを葬る。
そらこれが魂というものだ、それは、
焼き場では拾えない、死んだ時
ひとは魂を解放する、肉体から
それから時間だ。ブラックホールが
どこよりも明るいなんて
知っていたさ、彼は笑って
アインシュタインを
送り出す、空間へと。




2019年7月4日木曜日

【詩】「Char、そして雨」

「Char、そして雨」

Hypnos saisit l'hiver et le vêtit de granit.
L'hiver se fit sommeil et Hypnos devint feu. La suite appartient aux hommes.*

ヒュプノスは冬を捕まえ冷たい花崗岩の服を着せた。
冬は眠くなりヒュプノスは火になった。そして彼らは人間に属した。

そして雨。
雨は神話では語られず
東洋の湿度のなかで
眠りの役目を果たす
癒しと
かの国はスペイン
海の向こうにはイングランドがひかえ
訪れたことなど遠い昔のように

なにがひとを癒すのか?
なにが神を癒すのか?
なにが物語を癒すのか?

それは解体という名の
神の逃亡

きみはつぶさに見るべき
立ち直るために


******

* RENÉ CHAR 'Feuillets d'Hypnos'  ("Fureur et mystère"







2019年5月11日土曜日

Les tableaux d'Hiroshi Senju

Les tableaux d'Hiroshi Senju

Commemorating the Completion of Fusuma Paintings for Kongobuji Temple, Koyasan.

La chute et le precipice sont le sujet de Hiroshi Senju. Si on approfondi la litterature classique japonaise, on peut voir une sorte d'essence, et ici les personnages disparaissent et la naure seule reste. C'est a dire la chute et precipice. Surtout la chute, cela, a le bruit comme "signifie" et a l'histoire des gens comme "signifiant". La violence de l'embruns blanc  reste immobile dans l'encre de Chine dont on ne peut exprimer que par les couleurs naturelles a  roche.







2015年1月15日木曜日

フランスはどうなる?

FaceBookでの、『Le Monde.fr』のフォローをやめた。同じこと(例のあの「私はシャルリー」)ばかり、手替え品替え繰り返してウザい。風刺週刊誌『シャルリー・エブド』がテロリストに襲撃され、何人もの風刺漫画家(編集長を含む)が殺されたが、この週刊誌は、かなり長期にわたり、イスラム関係者を挑発し続けてきた。無辜のアフリカの一般市民がテロリストに殺され続けているのとはわけがちがう。

「命知らずにも」テロリストを挑発を続けたことは、「命より(彼らの考える)『言論の自由』の方が大切だ」という認識があったとしか思えない。

フランスは、「テロとの戦争」を宣言した。血で血をあがなおうというのか? オルランド現大統領(社会党)もそういう立場だが、極右政党「フロン・ナショナル」のマリーヌ・ル・ペン党首も同じことを言っている。テロリスト、イスラム原理主義者と、普通のイスラム教徒は違う、と認識し合う場面にはたびたび出くわすが、やがては混同されるだろう。憎悪のなかで、意識的に混同されうる危険をはらんでいる。

「私はシャルリー」を茶化し、テロリスト支援であるかのような見え方をした芸人が逮捕された。「言論の自由」などと言いながら、すでに思想統制が始まっている。


さあて、どうなるんですかね、おフランスは?

2014年6月11日水曜日

『グランド・ブダペスト・ホテル』──ポスト・ポスト・モダン的

『グランド・ブダペスト・ホテル』ウェス・アンダーソン監督

 ストーリーはあるにはあるが、ウェス・アンダーソンが本作で描きたかったのは、「一覧できるヨーロッパ的なるもの」と、「そのディテール」であろう。ゴダールもことさらホテルを舞台に選び、「ホテルではあらゆる人が出会い、なんでも起こりうるから」と言っていたと思うが、そこを、この作品は外していない。
 ホテルに、とくに、高級ホテルに行けば、「従業員の最下層」と思われるベルボーイがいて、すぐに荷物を持ってくれる。一応、本作品の「主役」、コンシェルジュのグスタフも、ベルボーイあがりであることが、映画の後半で明かされる。といってもたいていは予想がつく。本作では、いつもは脇でしかないコンシェルジュを主役に、その職業の人々に大活躍させる。また、囚人など、高級ホテルからは縁遠い人たちにも、一流俳優がキャスティングされ、豪華さと批評を同時に達成している。
 ウェス特有の、「いわゆるひとつのディテール主義」は、本作でいっそう拍車も磨きもかけられ、思想にまで高められている。T.S.エリオット、ヘンリー・ジェイムズら、ヨーロッパに魅せられた一流アメリカ人の、もしかしたら、正統なる後継者は、彼なのかもしれない。
 「現在」「1960年代」「1930年代」の「中央」ヨーロッパが、入れ子構造に舞台になっていて、物語の中心は、1930年代にあるが、中央ヨーロッパの崩壊、再編成、クリミア、ウクライナ問題、ドイツ語、フランス語、カトリックの神父などの噛み合わせ具合は、現在の状況をも重ね合わすことができる。
 大はホテルから、小はお菓子まで、あらゆる「道具」をオリジナルに製作している神経の届き方には、ただただ敬服するしかないが、なかでも一番感心したのは、大富豪の老夫人の家にあった絵画で、彼女が、「愛する友=コンシェルジュ」のグスタフに遺してくれた作品であるが、画家も架空なら、「林檎と少年」という題名だったか、その絵も作り物だが、その「いかにもの」少年の姿である。エンド・クレジットには、その絵のモデルとなった人物の名前まであった。BGMも、前作『ムーンライト・キングダム』同様、クラシックが贅沢に、かつ教養的に配されている。
 「デリダ」だの「だれだ」だの、おフランス思想に未練たらたらの日本の「現代思想」愛好者も、いろいろ小難しい理屈をこねる前に、こんだけの映画を作ってみたらどーだね?



2014年3月10日月曜日

『それでも夜は明ける』──ほんとうは誰も知らない奴隷制の歴史

『それでも夜は明ける』スティーブ・マックィーン監督(2013年)

 こういう作品にハリウッドは弱い。辛い点をつけただけで、奴隷制賛成主義者だと見なされはしないかと密かに怖れているかのようだ(笑)。「アメリカの良心」と言われる歴史家、ハワード・ジンの本によれば、奴隷貿易は、コロンブスがアメリカに到着する50年も前に、ポルトガルで始まった。つまり、1440年代のことだ。アメリカでは、1619年に20人の黒人がジェームズタウンに送られたのが、始まりだ。以来、リンカーンが「経済的理由で」奴隷制を廃止するまで続く。奴隷貿易を最もさかんに行ったのは、オランダで、次がイギリスだった。アフリカにも奴隷はいた。つまるところ、誰も、黒人も白人も、よくは知らないのである。しかし、こういう映画を作ると、「傑作だと言わなければいけない症候群」を発してしまうのは、やはり、長い奴隷制の「たたり」(笑)なのかもしれない。

 監督の、スティーブ・マックィーンは、黒人のイギリス人であり、主人公のキウェテル・イジョフォーも、黒人のイギリス人であり、「善玉」のプランテーションの農園主を演じる、ベネディクト・カンバーバッチも、「悪玉」の農園主を演じるマイケル・ファスベンダーも、ドイツとアイルランドのハーフであるとはいえ、イギリスで活躍する俳優である。つまりは、「イギリス人たちに描いてもらったアメリカ奴隷の世界」なのである。

 物語の時代が、1840年代ということで、長きにわたるアメリカ奴隷制の歴史のなかでも、終盤に近い微妙な時代である。北部の自由州に住む黒人は、20万人いた。しかし、完全なる奴隷制廃止には、南北戦争を待たねばならない。そして、自由州に住む黒人の地位も安定していたとは言い難いのではないか。マックィーン監督は、まず、アメリカの奴隷制を撮ろうという意志があり、のち、本作の原作にめぐり会った。過酷な事実を描いた手記に心打たれたと言うが、アメリカ奴隷制の残酷さは、こんなものではない。
 しかし、演出には、見るべきものがあった。視点があくまで、主人公の見た「現実」である。奴隷船のメカニズム、鞭打たれた皮膚、農場の光などが、アップでていねいに描かれている。音楽は、どこか現代性を感じさせるセンスで貫かれている。

 しかしだ、私は、前作の、セックス依存症の男を描いた『SHAME、シェイム』の方が、より深く人間を描いているように思った。その男を、今回のファスベンダーは、引きずっているように思った。興味深い役者である。


2014年3月7日金曜日

『芸術とは何か 千住博が答える147の質問』──オール・アバウト千住博

芸術とは何か 千住博が答える147の質問』(千住博著、祥伝社新書、2014年3月刊)

 Q&Aの形を借りてはいるが、画家志望の人も、絵画を愛する人も、知りたいのに誰も答えてくれない質問を、よくぞ集めたものである。質問者は誰とは書いてないので、あるいは、千住博その人が、考えた質問かもしれない。表題の、「芸術とは何か」という問いは、普遍的なもので、古今の芸術家、文学者、哲学者も問うている。本書は結局のところ、そういう普遍的な質問に収束しながら、「日本画の特徴は何か」「西洋画の特徴は何か」「すぐれた絵画とはどういうものか」「美大、芸大の教育で画家にならえるか」「作品の価格はどのように決まるか」「オークションはどのようなものか」「画商とのつきあいはどのようなものか」「値上がりを期待して、絵画を購入するのは邪道か」……など、具体的かつ即物的な質問にもズバリ答えている。
 Q&A形式のよい点は、余分な記述を割愛できることである。本書は新書ながら、およそ千住博の考えていることが、腹蔵なく語られている。千住博はまさに、日本画壇に挑戦し続ける、真にラディカルな(つまりは、本来の意味での「日本」の「絵」を追求し、創造しようとしている)作家であることがよくわかる。また、芸術を志す若い人の道しるべともなるだろう。


2014年3月3日月曜日

『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』──ディープなアメリカのフツーの人々

『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』アレクサンダー・ペイン監督 

 ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を少しだけ彷彿とさせる映画だが、本作の方が、できがかなりよい。まず脚本(ボブ・ネルソン)がすばらしい。「父と息子のロード・ムーヴィー」に、お約束のように用意されている「心のふれあい」、父母の故郷で明かされる「父の秘密」、それらが、実にあっさりと、さりげなく提示されている。

 父子が移動する、モンタナからネブラスカは、約800マイル、車で13時間。ちょうど、アメリカ大陸のまん真ん中の街から街へ移動する。見えるものは、遠くの山脈、平原、空……。朝もあれば、夕方も、夜もあるだろう。しかし、あえて選ばれた白黒は、感傷を押しつけずに、自然の美しさだけを見せる。

 登場人物の8割は老人である。かれらの顔が大写しにされる。男も女も醜い。若者はいるにはいても、ほとんど太っている。主人公一家の、中年兄弟の美しさが際立つ。醜い老人たちは、善人もいれば悪人もいる。だが、観客に、こうした老後が、「10年後のあなたにとっては、まだ他人事」「20年後のあなたには絵空事」「30年後のあなたにはあり得ない事柄」だと言っているようだ。

 だが、それらは、まぎれもないアメリカの現実であり、高齢化社会を迎えている日本でも起こりうることだ。そうした事実を露出しつつ「隠して」、映画は淡々と進む。音楽もさりげなくセンスがいい。


 温かいまなざしをしていたからと、100万ドル当たったと信じ込む父と旅する息子役に抜擢された、ウィル・フォーテが、デブのガールフレンドにさえ振られる、サエない男を演じているが、ほんとうにまなざしがやさしく美しく、心に染みいる。

2014年2月18日火曜日

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』──新書にはまれな永久保存版

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』(河合祥一郎著、2013年12月刊、祥伝社新書) [


 帯にあるようにも、欧米の教養人、あるいは、古典を読むにあたって、必須の知識は、聖書とシェイクスピア作品である。欧米の人々はそれがわかっているから、成長していく過程で自然に身につけることができるが、日本では、こういう知識は、意識的に身につけなければならない。資格試験の点数がいくら高くても、このような知識を欠いていたら、欧米人には教養ある人とは認めてもらえない。
 確かに、語学の教科書でも、部分的に取り入れられていたりしているが、網羅してリストに、かつ、ポイントが書いてある本は、あるようでない。文学的な専門書にしてからがそうである。それを本書は、いとも気軽に(とはいえ、大変な知識と読書量を要すると思うが)、惜しみなく、読者が参照しやすいように書かれている。
 『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』などはおなじみであるが、シェイクスピアの歴史劇などは複雑で、戯曲に丸腰でかかっても歯が立たないということがある。その点、本書を読めば、その構造もすっきりで、文学そのものに集中することができる。
 よくある、あらすじだけを書いた本とはまったく違う。私など、なかなかシェイクスピアを攻略できないでいたので、「このような本をよくぞ書いてくれました。ありがとう」と陰ながら著者に手を合わせる日々である(笑)。


2014年2月6日木曜日

ワタシ的「フィリップ・シーモア・ホフマン」追悼

 数日前だったか、氏の訃報がニュースで流れ驚いた。カメレオン俳優の彼のファンだった。カメレオンといっても、ああいう風貌だから、役柄は、変人、悪人などが多い。なかでは、最近作の、『25年目の弦楽四重奏』は、素の彼に近いような、悪人でも変人でもなく、人間的な役だった。第二ヴァイオリンという、弦楽四重奏においては、「脇」のパートと人生をダブらせ、主役である第一ヴァイオリンへのコンプレックスも滲ませるという微妙な内面をも演じきっていた。もともと出身もニューヨークなので、この街を舞台にした音楽家という役のどこか洗練されている感じもよく似合っていた。
 これからもどのように変わっていくか、楽しみの人だっただけに、46才の死が惜しまれる。ヘロインの注射針が腕に刺さったまま死んでいたというが、プレッシャーにつぶされたのだろうか。それも、「知的」で「おバカ」という矛盾したキャラクターの、彼らしいといえばいえる。冥福を祈る。Rest in Peace.


2014年2月5日水曜日

二月は古句が似合う季節

芥川龍之介は、「我鬼」という号で、俳句に心酔していたようで、岩波文庫からも俳句集が出ているが、この「ブランド」の句には、私にとっては、あまり心ひかれるものはない。

したがって、また、古句に戻る。『古句を観る』(岩波文庫)のはじめに、柴田宵曲は書いている。「世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過ごされたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる」

「『古句を観る』の古句は、元禄時代の芭蕉の息のかゝつた俳書から集めたのであるが、その中には芭蕉やその周囲の主だつた人の句は一つも採らず、無名作家の手になつた俳句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても清新な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。宵曲子は古い俳書も丁寧に読んで、さうした句ばかり集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はれる」(森銑三、同書巻末で)


うそくらき木々の寐起や梅の花  木兆

紅梅や古句の似合はし季節なり




誰かに似ている?

若き日(といっても、自殺する年の昭和2年、35才のとき)の芥川龍之介は、こんな顔((遺言通りの岩波の全集、第9巻)
最近、わんさかいて名前を覚えられない、若手俳優、歌手、タレントのなかに、こんなカオいなかったか?

この全集には、遺書も収録されているが、たしか、何人かの知人に、死ぬ理由や、死後はこうしてくれ、という指示を与えている。妻には、事務的なことのみ。全集は「岩波から出したい」と。枕元には聖書。

なんで死ぬか? 恋愛をしていて、一方に家族があって、邪魔だ。そんなあけすけなことが書いてあった。これも、若さゆえ、なのか。





2014年1月27日月曜日

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著)──動き続けろ!

 『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著、2013年10月、河出書房新社刊)

 確か、「現代思想」の哲学者の中では、「動き続けろ!」という思想の方が重きをなしていると思われる。そこを、あえて、「動きすぎてはいけない」という言辞を持ち出してくるのは、それだけで、すでに、文字通り、「反動」である。

 一時期、新しがりの若者の間にはやった「フランスの現代思想家」が、またぞろ「亡霊のように徘徊しだした」というべきか。読者は、あの東浩紀のデリダ論(だかなんだか)『存在論的、郵便的』から15年も経っていることに留意すべきである。またこんなことを書く若者(って、35才くらいであるが)が登場したということは、浅田彰も東浩紀も、なんの意味もなかったということである。

 確かに本書の、「序」である「切断論」は、よくまとまったドゥルーズ論になっているので、へたな新書の入門書より、こちらの方をリファレンスとして読みかつ保存しておいた方がいいかもしれない。

 本書では、アガンベンなどのイタリアの現代思想家にも多少触れている。ドゥルーズが「ポストポスト構造主義」なら、その先は、どうも、イタリアの方に流れているようである。しかし、本著者を生んだ、東大ー京大アカデミズムの磁場は、フランス語を中心とするフランス哲学界にあるようだから、哲学を学ぶには、まずその言語に通暁しないといけないとなると、イタリア語系の学者が手薄という事態がある。それにしても、デリダ、ドゥルーズというのは、本国より、日本で異常な人気らしい。それでまだ、本書のような本が流通できるのか?

 これらの学者たちは、だいたいは、外国の哲学者の「解説」、せいぜいが「解釈」で、独自なオリジナル思想というようなものはない。ドゥルーズの思想の核として、一方に、ベルクソン、一方にヒュームがあるそうだが、この程度の思想なら、小林秀雄の思想の核にだってベルクソンはあるし、吉田健一だってヒュームを意識していたと思われる。もっと日本の「思想家」に眼を向けたらどうかね? 本居宣長とか。でなければ、日本人として、真の新しい思想の形成は難しいのでは? ……などと、田母神俊雄氏みたいなことを言ってしまった(笑)。

 第1章「生成変化の原理」に紹介されている、中島隆博による「荘子」とフランス思想の比較の紹介も、新しい発見のように書かれているが、ドゥルーズ以前に(というべきか、1965年に)、レーモン・クノーが、「青い花」という小説に取り入れている。


2013年12月30日月曜日

『言葉と歩く日記』──真の作家であるためには最終的にひとつの言語を選ばなければならない

『言葉と歩く日記』(多和田葉子著、岩波新書、2013年12月20日刊) 

 小林秀雄は「作家志望の諸君へ」と題するエッセイで、「少なくとも二カ国語以上の外国語に習得すること」という条件を挙げていたように思う。また、吉田健一は、ケンブリッジに入学したものの、担当教授から「文学をやりたいのなら、日本へ帰るべきだ」と言われ、19才で帰国し、アテネフランセに入ってギリシア語などを勉強した。英語で詩集を出し、エズラ・パウンドに高く評価された西脇順三郎など、外国語に達意な日本の文学者は数多い。しかし、彼らは、いずれ、ひとつの言語、それはたいてい母国語になるが、を選び取り、それを深めている。また、深めるための外国語でなければならない。
 二カ国語をスイッチングしながら作家活動をした作家としてすぐに思い出すのは、アイルランドのサミュエル・ベケットであり、ベケットは、ゲーテの訳も、南米詩人の訳もあるので、おそらく多言語に通じていたのだろう。これらの偉大な作家、詩人に比べると(比べる方が悪いのかもしれないが)、多和田葉子のやっていることは、ただの「外国語ができない読者への脅し」に見える。私はあなたたちとはちがって、ドイツ語もできるのよ!それで文学賞もとっているのよ! それが、どーした? である。
 「熊の手をいう言葉がドイツ語と日本語ではちがう」──こんな例など、各外国語と日本語で、枚挙にいとまがない。この「日記」には、カフカなどの作家も多く言及されているが、それらの作家に対して、深い洞察があるわけではない。言語に対する意識もとりわけ高いわけではない。ただ、三十年もドイツに住み、仏語でいうところの、déraciné(デラシネ、根無し草)となった著者が、おめでたくもそれに気づかず、表面的な言語遊技に興じ、かつ、ドイツ語で小説が書ける、そのことのみで尊敬してしまっている編集者に本を出してもらってその気になっているにすぎない姿、それが本書である。なにかあるかと期待して買ったが、今回もなんらインスパイアされることはなかった。(しかし、ドイツ語には、、déraciné(デラシネ) にあたる概念はないのかな〜?)


2013年12月11日水曜日

インテリジェンス機関を持つことに日本は十分成熟しているのか?

 特定秘密保護法案に関して、まず、私は「なんで今頃?」と思った。その「秘密」は、以下でわかった。
憲法学者、水島朝穂氏のHPである。
http://www.asaho.com/jpn/index.html
その「直言」に以下のようにあった。

 「今回の特定秘密保護法の真の立法者は警察官僚である。法案を作成した内閣情報調査室で最も活発に意見を出したのは、警察庁警備局警備企画課(「チヨダ」という公安警察の司令塔)だった(※リンク先はPDFファイル)。3年前の10月、警視庁公安部外事3課テロ対策担当者の個人情報や、監視対象者や捜査協力者の情報が大量にネット流出したが、この事件が10月に時効になった。これは警察上層部のトラウマとなった。今回実現した「適正評価制度」こそ、全公務員に疑いの眼差しを向け、その監視・統制をはかる最大の武器になり得る。そして、秘密を扱う公務員の「身近にあって対象者の行動に影響を与えうる者」への調査が可能になるため、一般市民やジャーナリストなどに監視を広げていくことも可能となる。秘密があるかどうかも秘密、何が秘密であるかも秘密、秘密を取り扱う人の取り扱い方も秘密ノ。まさに「生まれも育ちも中身も『秘密』に包まれて」というわけである。これは、戦後の内務省解体で警察官僚が失った権限の復権につながるものと言えるだろう。」
 まあ、官僚なんですね、原案を作って、働きかけたのは。それは、「特定秘密保護法案と日本版NSC」というKindle書籍(週刊金曜日刊の、福島みずほが佐藤優にインタビューしたもの)で、佐藤優が訴えていたことと重なる。つまり、日本の政治は官僚のほしいままになりつつあるのである。ただ、その施行までに(最大限)一年あるので、その間に阻止することも、まったく不可能ではないらしいが、場合によっては逆に施行を早められるという可能性もはらんでいる。
 こうした事態に関しては過去の翼賛的国民監視装置と比較され、多くの人々が懸念している。

 アメリカには、大統領のインテリジェンス機関、CIAや、国防総省のインテリジェンス機関、軍のインテリジェンス機関など、さまざまな権力機関がそれぞれの情報組織を持っており、権力争いをしたりするの姿は映画にも描かれている。またかつて権力機関にいた人間が、回顧録などを出版しても、ある情報に関する秘匿は要求されても、犯罪者になることはない。果たして、日本はそういうインテリジェンスの取り扱い機関(とくに、安全保障に関しての情報であるそうだが)を持つことに対して十分成熟しているのかが、私は問題だと思う。


 案外ウィキリークスの活躍に期待してみるのも、対抗の一案かもしれない。

2013年9月10日火曜日

『サイド・エフェクト』──ストイックな美しさ


『サイド・エフェクト』スティーヴン・ソダーバーグ監督、スコット・Z・バーンズ脚本

中年の精神科医と若い女性患者。ありがちのストーリー展開にはならない。だいたいこの二人は、対決こそすれ、関係しない。思えば、ソダーバーグが、そのデビュー作(?)の『セックスと嘘とビデオテープ』から、セックスをテーマにしたことはない。彼のテーマは、「セックスの周辺を流通する世界と、それに関わる人間たちの嘘」である。ずばりセックスを期待していた観客はまったくはぐらかされる。
 エンターテインメントのアメリカ映画を見ていれば、アメリカ人がいかにセックスを人生の重大事にしているかがわかる。いい年のオバサンまでが、夫が自分を女として見てくれないと悩む(メリル・ストリープ主演『31年目の夫婦げんか』)。しかし、ソダーバーグはそういう風潮とは無関係だ。ただ彼は現代社会を生きる「生」の複雑さを見つめる。本作では、精神安定剤のアメリカでのカジュアルな流通(テレビでCMをやっている)と、それを逆手にとった「嘘」を、美術的に配慮された画面(本作を最後に、彼は画家としてのキャリアに挑戦するという)で見せる。配役はあくまで、「リアル」にこだわる。ジュード・ロウ、ルーニー・マーラ、チャニング・テイタム、キャサリン・ゼタ・ジョーンズの演じる主要人物が、俳優たちの実年齢とほぼ同じに設定されていると見た。
 ソダーバーグは、映画監督としての最終作で、テーマ的にはデビュー作に戻ったように感じた。そこにはすがすがしい「初心」があり、それは題材のスキャンダラスな外観を裏切って、ストイックな美しさを湛えている。


行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...