2014年6月11日水曜日

『グランド・ブダペスト・ホテル』──ポスト・ポスト・モダン的

『グランド・ブダペスト・ホテル』ウェス・アンダーソン監督

 ストーリーはあるにはあるが、ウェス・アンダーソンが本作で描きたかったのは、「一覧できるヨーロッパ的なるもの」と、「そのディテール」であろう。ゴダールもことさらホテルを舞台に選び、「ホテルではあらゆる人が出会い、なんでも起こりうるから」と言っていたと思うが、そこを、この作品は外していない。
 ホテルに、とくに、高級ホテルに行けば、「従業員の最下層」と思われるベルボーイがいて、すぐに荷物を持ってくれる。一応、本作品の「主役」、コンシェルジュのグスタフも、ベルボーイあがりであることが、映画の後半で明かされる。といってもたいていは予想がつく。本作では、いつもは脇でしかないコンシェルジュを主役に、その職業の人々に大活躍させる。また、囚人など、高級ホテルからは縁遠い人たちにも、一流俳優がキャスティングされ、豪華さと批評を同時に達成している。
 ウェス特有の、「いわゆるひとつのディテール主義」は、本作でいっそう拍車も磨きもかけられ、思想にまで高められている。T.S.エリオット、ヘンリー・ジェイムズら、ヨーロッパに魅せられた一流アメリカ人の、もしかしたら、正統なる後継者は、彼なのかもしれない。
 「現在」「1960年代」「1930年代」の「中央」ヨーロッパが、入れ子構造に舞台になっていて、物語の中心は、1930年代にあるが、中央ヨーロッパの崩壊、再編成、クリミア、ウクライナ問題、ドイツ語、フランス語、カトリックの神父などの噛み合わせ具合は、現在の状況をも重ね合わすことができる。
 大はホテルから、小はお菓子まで、あらゆる「道具」をオリジナルに製作している神経の届き方には、ただただ敬服するしかないが、なかでも一番感心したのは、大富豪の老夫人の家にあった絵画で、彼女が、「愛する友=コンシェルジュ」のグスタフに遺してくれた作品であるが、画家も架空なら、「林檎と少年」という題名だったか、その絵も作り物だが、その「いかにもの」少年の姿である。エンド・クレジットには、その絵のモデルとなった人物の名前まであった。BGMも、前作『ムーンライト・キングダム』同様、クラシックが贅沢に、かつ教養的に配されている。
 「デリダ」だの「だれだ」だの、おフランス思想に未練たらたらの日本の「現代思想」愛好者も、いろいろ小難しい理屈をこねる前に、こんだけの映画を作ってみたらどーだね?



2014年3月10日月曜日

『それでも夜は明ける』──ほんとうは誰も知らない奴隷制の歴史

『それでも夜は明ける』スティーブ・マックィーン監督(2013年)

 こういう作品にハリウッドは弱い。辛い点をつけただけで、奴隷制賛成主義者だと見なされはしないかと密かに怖れているかのようだ(笑)。「アメリカの良心」と言われる歴史家、ハワード・ジンの本によれば、奴隷貿易は、コロンブスがアメリカに到着する50年も前に、ポルトガルで始まった。つまり、1440年代のことだ。アメリカでは、1619年に20人の黒人がジェームズタウンに送られたのが、始まりだ。以来、リンカーンが「経済的理由で」奴隷制を廃止するまで続く。奴隷貿易を最もさかんに行ったのは、オランダで、次がイギリスだった。アフリカにも奴隷はいた。つまるところ、誰も、黒人も白人も、よくは知らないのである。しかし、こういう映画を作ると、「傑作だと言わなければいけない症候群」を発してしまうのは、やはり、長い奴隷制の「たたり」(笑)なのかもしれない。

 監督の、スティーブ・マックィーンは、黒人のイギリス人であり、主人公のキウェテル・イジョフォーも、黒人のイギリス人であり、「善玉」のプランテーションの農園主を演じる、ベネディクト・カンバーバッチも、「悪玉」の農園主を演じるマイケル・ファスベンダーも、ドイツとアイルランドのハーフであるとはいえ、イギリスで活躍する俳優である。つまりは、「イギリス人たちに描いてもらったアメリカ奴隷の世界」なのである。

 物語の時代が、1840年代ということで、長きにわたるアメリカ奴隷制の歴史のなかでも、終盤に近い微妙な時代である。北部の自由州に住む黒人は、20万人いた。しかし、完全なる奴隷制廃止には、南北戦争を待たねばならない。そして、自由州に住む黒人の地位も安定していたとは言い難いのではないか。マックィーン監督は、まず、アメリカの奴隷制を撮ろうという意志があり、のち、本作の原作にめぐり会った。過酷な事実を描いた手記に心打たれたと言うが、アメリカ奴隷制の残酷さは、こんなものではない。
 しかし、演出には、見るべきものがあった。視点があくまで、主人公の見た「現実」である。奴隷船のメカニズム、鞭打たれた皮膚、農場の光などが、アップでていねいに描かれている。音楽は、どこか現代性を感じさせるセンスで貫かれている。

 しかしだ、私は、前作の、セックス依存症の男を描いた『SHAME、シェイム』の方が、より深く人間を描いているように思った。その男を、今回のファスベンダーは、引きずっているように思った。興味深い役者である。


2014年3月7日金曜日

『芸術とは何か 千住博が答える147の質問』──オール・アバウト千住博

芸術とは何か 千住博が答える147の質問』(千住博著、祥伝社新書、2014年3月刊)

 Q&Aの形を借りてはいるが、画家志望の人も、絵画を愛する人も、知りたいのに誰も答えてくれない質問を、よくぞ集めたものである。質問者は誰とは書いてないので、あるいは、千住博その人が、考えた質問かもしれない。表題の、「芸術とは何か」という問いは、普遍的なもので、古今の芸術家、文学者、哲学者も問うている。本書は結局のところ、そういう普遍的な質問に収束しながら、「日本画の特徴は何か」「西洋画の特徴は何か」「すぐれた絵画とはどういうものか」「美大、芸大の教育で画家にならえるか」「作品の価格はどのように決まるか」「オークションはどのようなものか」「画商とのつきあいはどのようなものか」「値上がりを期待して、絵画を購入するのは邪道か」……など、具体的かつ即物的な質問にもズバリ答えている。
 Q&A形式のよい点は、余分な記述を割愛できることである。本書は新書ながら、およそ千住博の考えていることが、腹蔵なく語られている。千住博はまさに、日本画壇に挑戦し続ける、真にラディカルな(つまりは、本来の意味での「日本」の「絵」を追求し、創造しようとしている)作家であることがよくわかる。また、芸術を志す若い人の道しるべともなるだろう。


2014年3月3日月曜日

『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』──ディープなアメリカのフツーの人々

『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』アレクサンダー・ペイン監督 

 ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を少しだけ彷彿とさせる映画だが、本作の方が、できがかなりよい。まず脚本(ボブ・ネルソン)がすばらしい。「父と息子のロード・ムーヴィー」に、お約束のように用意されている「心のふれあい」、父母の故郷で明かされる「父の秘密」、それらが、実にあっさりと、さりげなく提示されている。

 父子が移動する、モンタナからネブラスカは、約800マイル、車で13時間。ちょうど、アメリカ大陸のまん真ん中の街から街へ移動する。見えるものは、遠くの山脈、平原、空……。朝もあれば、夕方も、夜もあるだろう。しかし、あえて選ばれた白黒は、感傷を押しつけずに、自然の美しさだけを見せる。

 登場人物の8割は老人である。かれらの顔が大写しにされる。男も女も醜い。若者はいるにはいても、ほとんど太っている。主人公一家の、中年兄弟の美しさが際立つ。醜い老人たちは、善人もいれば悪人もいる。だが、観客に、こうした老後が、「10年後のあなたにとっては、まだ他人事」「20年後のあなたには絵空事」「30年後のあなたにはあり得ない事柄」だと言っているようだ。

 だが、それらは、まぎれもないアメリカの現実であり、高齢化社会を迎えている日本でも起こりうることだ。そうした事実を露出しつつ「隠して」、映画は淡々と進む。音楽もさりげなくセンスがいい。


 温かいまなざしをしていたからと、100万ドル当たったと信じ込む父と旅する息子役に抜擢された、ウィル・フォーテが、デブのガールフレンドにさえ振られる、サエない男を演じているが、ほんとうにまなざしがやさしく美しく、心に染みいる。

2014年2月18日火曜日

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』──新書にはまれな永久保存版

『あらすじで読むシェイクスピア全作品』(河合祥一郎著、2013年12月刊、祥伝社新書) [


 帯にあるようにも、欧米の教養人、あるいは、古典を読むにあたって、必須の知識は、聖書とシェイクスピア作品である。欧米の人々はそれがわかっているから、成長していく過程で自然に身につけることができるが、日本では、こういう知識は、意識的に身につけなければならない。資格試験の点数がいくら高くても、このような知識を欠いていたら、欧米人には教養ある人とは認めてもらえない。
 確かに、語学の教科書でも、部分的に取り入れられていたりしているが、網羅してリストに、かつ、ポイントが書いてある本は、あるようでない。文学的な専門書にしてからがそうである。それを本書は、いとも気軽に(とはいえ、大変な知識と読書量を要すると思うが)、惜しみなく、読者が参照しやすいように書かれている。
 『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』などはおなじみであるが、シェイクスピアの歴史劇などは複雑で、戯曲に丸腰でかかっても歯が立たないということがある。その点、本書を読めば、その構造もすっきりで、文学そのものに集中することができる。
 よくある、あらすじだけを書いた本とはまったく違う。私など、なかなかシェイクスピアを攻略できないでいたので、「このような本をよくぞ書いてくれました。ありがとう」と陰ながら著者に手を合わせる日々である(笑)。


2014年2月6日木曜日

ワタシ的「フィリップ・シーモア・ホフマン」追悼

 数日前だったか、氏の訃報がニュースで流れ驚いた。カメレオン俳優の彼のファンだった。カメレオンといっても、ああいう風貌だから、役柄は、変人、悪人などが多い。なかでは、最近作の、『25年目の弦楽四重奏』は、素の彼に近いような、悪人でも変人でもなく、人間的な役だった。第二ヴァイオリンという、弦楽四重奏においては、「脇」のパートと人生をダブらせ、主役である第一ヴァイオリンへのコンプレックスも滲ませるという微妙な内面をも演じきっていた。もともと出身もニューヨークなので、この街を舞台にした音楽家という役のどこか洗練されている感じもよく似合っていた。
 これからもどのように変わっていくか、楽しみの人だっただけに、46才の死が惜しまれる。ヘロインの注射針が腕に刺さったまま死んでいたというが、プレッシャーにつぶされたのだろうか。それも、「知的」で「おバカ」という矛盾したキャラクターの、彼らしいといえばいえる。冥福を祈る。Rest in Peace.


2014年2月5日水曜日

二月は古句が似合う季節

芥川龍之介は、「我鬼」という号で、俳句に心酔していたようで、岩波文庫からも俳句集が出ているが、この「ブランド」の句には、私にとっては、あまり心ひかれるものはない。

したがって、また、古句に戻る。『古句を観る』(岩波文庫)のはじめに、柴田宵曲は書いている。「世に持囃(もてはや)される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過ごされたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる」

「『古句を観る』の古句は、元禄時代の芭蕉の息のかゝつた俳書から集めたのであるが、その中には芭蕉やその周囲の主だつた人の句は一つも採らず、無名作家の手になつた俳句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても清新な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。宵曲子は古い俳書も丁寧に読んで、さうした句ばかり集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はれる」(森銑三、同書巻末で)


うそくらき木々の寐起や梅の花  木兆

紅梅や古句の似合はし季節なり




誰かに似ている?

若き日(といっても、自殺する年の昭和2年、35才のとき)の芥川龍之介は、こんな顔((遺言通りの岩波の全集、第9巻)
最近、わんさかいて名前を覚えられない、若手俳優、歌手、タレントのなかに、こんなカオいなかったか?

この全集には、遺書も収録されているが、たしか、何人かの知人に、死ぬ理由や、死後はこうしてくれ、という指示を与えている。妻には、事務的なことのみ。全集は「岩波から出したい」と。枕元には聖書。

なんで死ぬか? 恋愛をしていて、一方に家族があって、邪魔だ。そんなあけすけなことが書いてあった。これも、若さゆえ、なのか。





2014年1月27日月曜日

『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著)──動き続けろ!

 『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉雅也著、2013年10月、河出書房新社刊)

 確か、「現代思想」の哲学者の中では、「動き続けろ!」という思想の方が重きをなしていると思われる。そこを、あえて、「動きすぎてはいけない」という言辞を持ち出してくるのは、それだけで、すでに、文字通り、「反動」である。

 一時期、新しがりの若者の間にはやった「フランスの現代思想家」が、またぞろ「亡霊のように徘徊しだした」というべきか。読者は、あの東浩紀のデリダ論(だかなんだか)『存在論的、郵便的』から15年も経っていることに留意すべきである。またこんなことを書く若者(って、35才くらいであるが)が登場したということは、浅田彰も東浩紀も、なんの意味もなかったということである。

 確かに本書の、「序」である「切断論」は、よくまとまったドゥルーズ論になっているので、へたな新書の入門書より、こちらの方をリファレンスとして読みかつ保存しておいた方がいいかもしれない。

 本書では、アガンベンなどのイタリアの現代思想家にも多少触れている。ドゥルーズが「ポストポスト構造主義」なら、その先は、どうも、イタリアの方に流れているようである。しかし、本著者を生んだ、東大ー京大アカデミズムの磁場は、フランス語を中心とするフランス哲学界にあるようだから、哲学を学ぶには、まずその言語に通暁しないといけないとなると、イタリア語系の学者が手薄という事態がある。それにしても、デリダ、ドゥルーズというのは、本国より、日本で異常な人気らしい。それでまだ、本書のような本が流通できるのか?

 これらの学者たちは、だいたいは、外国の哲学者の「解説」、せいぜいが「解釈」で、独自なオリジナル思想というようなものはない。ドゥルーズの思想の核として、一方に、ベルクソン、一方にヒュームがあるそうだが、この程度の思想なら、小林秀雄の思想の核にだってベルクソンはあるし、吉田健一だってヒュームを意識していたと思われる。もっと日本の「思想家」に眼を向けたらどうかね? 本居宣長とか。でなければ、日本人として、真の新しい思想の形成は難しいのでは? ……などと、田母神俊雄氏みたいなことを言ってしまった(笑)。

 第1章「生成変化の原理」に紹介されている、中島隆博による「荘子」とフランス思想の比較の紹介も、新しい発見のように書かれているが、ドゥルーズ以前に(というべきか、1965年に)、レーモン・クノーが、「青い花」という小説に取り入れている。


行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...