2013年12月30日月曜日

『言葉と歩く日記』──真の作家であるためには最終的にひとつの言語を選ばなければならない

『言葉と歩く日記』(多和田葉子著、岩波新書、2013年12月20日刊) 

 小林秀雄は「作家志望の諸君へ」と題するエッセイで、「少なくとも二カ国語以上の外国語に習得すること」という条件を挙げていたように思う。また、吉田健一は、ケンブリッジに入学したものの、担当教授から「文学をやりたいのなら、日本へ帰るべきだ」と言われ、19才で帰国し、アテネフランセに入ってギリシア語などを勉強した。英語で詩集を出し、エズラ・パウンドに高く評価された西脇順三郎など、外国語に達意な日本の文学者は数多い。しかし、彼らは、いずれ、ひとつの言語、それはたいてい母国語になるが、を選び取り、それを深めている。また、深めるための外国語でなければならない。
 二カ国語をスイッチングしながら作家活動をした作家としてすぐに思い出すのは、アイルランドのサミュエル・ベケットであり、ベケットは、ゲーテの訳も、南米詩人の訳もあるので、おそらく多言語に通じていたのだろう。これらの偉大な作家、詩人に比べると(比べる方が悪いのかもしれないが)、多和田葉子のやっていることは、ただの「外国語ができない読者への脅し」に見える。私はあなたたちとはちがって、ドイツ語もできるのよ!それで文学賞もとっているのよ! それが、どーした? である。
 「熊の手をいう言葉がドイツ語と日本語ではちがう」──こんな例など、各外国語と日本語で、枚挙にいとまがない。この「日記」には、カフカなどの作家も多く言及されているが、それらの作家に対して、深い洞察があるわけではない。言語に対する意識もとりわけ高いわけではない。ただ、三十年もドイツに住み、仏語でいうところの、déraciné(デラシネ、根無し草)となった著者が、おめでたくもそれに気づかず、表面的な言語遊技に興じ、かつ、ドイツ語で小説が書ける、そのことのみで尊敬してしまっている編集者に本を出してもらってその気になっているにすぎない姿、それが本書である。なにかあるかと期待して買ったが、今回もなんらインスパイアされることはなかった。(しかし、ドイツ語には、、déraciné(デラシネ) にあたる概念はないのかな〜?)


2013年12月11日水曜日

インテリジェンス機関を持つことに日本は十分成熟しているのか?

 特定秘密保護法案に関して、まず、私は「なんで今頃?」と思った。その「秘密」は、以下でわかった。
憲法学者、水島朝穂氏のHPである。
http://www.asaho.com/jpn/index.html
その「直言」に以下のようにあった。

 「今回の特定秘密保護法の真の立法者は警察官僚である。法案を作成した内閣情報調査室で最も活発に意見を出したのは、警察庁警備局警備企画課(「チヨダ」という公安警察の司令塔)だった(※リンク先はPDFファイル)。3年前の10月、警視庁公安部外事3課テロ対策担当者の個人情報や、監視対象者や捜査協力者の情報が大量にネット流出したが、この事件が10月に時効になった。これは警察上層部のトラウマとなった。今回実現した「適正評価制度」こそ、全公務員に疑いの眼差しを向け、その監視・統制をはかる最大の武器になり得る。そして、秘密を扱う公務員の「身近にあって対象者の行動に影響を与えうる者」への調査が可能になるため、一般市民やジャーナリストなどに監視を広げていくことも可能となる。秘密があるかどうかも秘密、何が秘密であるかも秘密、秘密を取り扱う人の取り扱い方も秘密ノ。まさに「生まれも育ちも中身も『秘密』に包まれて」というわけである。これは、戦後の内務省解体で警察官僚が失った権限の復権につながるものと言えるだろう。」
 まあ、官僚なんですね、原案を作って、働きかけたのは。それは、「特定秘密保護法案と日本版NSC」というKindle書籍(週刊金曜日刊の、福島みずほが佐藤優にインタビューしたもの)で、佐藤優が訴えていたことと重なる。つまり、日本の政治は官僚のほしいままになりつつあるのである。ただ、その施行までに(最大限)一年あるので、その間に阻止することも、まったく不可能ではないらしいが、場合によっては逆に施行を早められるという可能性もはらんでいる。
 こうした事態に関しては過去の翼賛的国民監視装置と比較され、多くの人々が懸念している。

 アメリカには、大統領のインテリジェンス機関、CIAや、国防総省のインテリジェンス機関、軍のインテリジェンス機関など、さまざまな権力機関がそれぞれの情報組織を持っており、権力争いをしたりするの姿は映画にも描かれている。またかつて権力機関にいた人間が、回顧録などを出版しても、ある情報に関する秘匿は要求されても、犯罪者になることはない。果たして、日本はそういうインテリジェンスの取り扱い機関(とくに、安全保障に関しての情報であるそうだが)を持つことに対して十分成熟しているのかが、私は問題だと思う。


 案外ウィキリークスの活躍に期待してみるのも、対抗の一案かもしれない。

2013年9月10日火曜日

『サイド・エフェクト』──ストイックな美しさ


『サイド・エフェクト』スティーヴン・ソダーバーグ監督、スコット・Z・バーンズ脚本

中年の精神科医と若い女性患者。ありがちのストーリー展開にはならない。だいたいこの二人は、対決こそすれ、関係しない。思えば、ソダーバーグが、そのデビュー作(?)の『セックスと嘘とビデオテープ』から、セックスをテーマにしたことはない。彼のテーマは、「セックスの周辺を流通する世界と、それに関わる人間たちの嘘」である。ずばりセックスを期待していた観客はまったくはぐらかされる。
 エンターテインメントのアメリカ映画を見ていれば、アメリカ人がいかにセックスを人生の重大事にしているかがわかる。いい年のオバサンまでが、夫が自分を女として見てくれないと悩む(メリル・ストリープ主演『31年目の夫婦げんか』)。しかし、ソダーバーグはそういう風潮とは無関係だ。ただ彼は現代社会を生きる「生」の複雑さを見つめる。本作では、精神安定剤のアメリカでのカジュアルな流通(テレビでCMをやっている)と、それを逆手にとった「嘘」を、美術的に配慮された画面(本作を最後に、彼は画家としてのキャリアに挑戦するという)で見せる。配役はあくまで、「リアル」にこだわる。ジュード・ロウ、ルーニー・マーラ、チャニング・テイタム、キャサリン・ゼタ・ジョーンズの演じる主要人物が、俳優たちの実年齢とほぼ同じに設定されていると見た。
 ソダーバーグは、映画監督としての最終作で、テーマ的にはデビュー作に戻ったように感じた。そこにはすがすがしい「初心」があり、それは題材のスキャンダラスな外観を裏切って、ストイックな美しさを湛えている。


2013年9月6日金曜日

「フーコーを読む 2013」

「フーコーを読む 2013

HP更新したから、来てね〜↓


似顔絵は、自称「マウスの絵師」、わたしくメが作製いたしました↓









2013年9月2日月曜日

『マジック・マイク』──肉体=知性の時代


『マジック・マイク』スーティーヴィン・ソダーバーグ監督+リード・カロリン脚本+チャニング・テイタム主演 

チャニング・テイタムの鍛え抜かれた完璧な肉体は、かつてのスタローンとか、シュワちゃんの、非知、非自然の肉体とは完全に違う。男性ストリッパーを演じようが、あくまで無機的かつ、ナチュラルなのである。無機的とナチュラルは、相反する概念のように見えるが、彼の肉体の中では解け合っている。

男性ストリッパーの世界を、ソダーバーグは、決しておちゃらかすことなく、あくまで、現実的なビジネスとして描く。そこにはハードなダンスレッスンもあれば、心の繊細な動きもある。主人公のマイクのほんとうの関心は、家具のデザインで、スカウトした未成年の青年の姉の家の家具も、ちゃんと見て発言するところにリアリティがある。

画家になることを決意して、監督業をやめるソダーバーグの、最後から二作目なのだろうか? とにかく、画家らしいスタイリッシュな映像と構成が目を引く。脚本は、同じテイタム主演の『ホワイトハウス・ダウン』と同じ人で、やっぱり、ストリップ・ダンサーは、ホワイトハウスの護衛官になったのか~(笑)である。ここでも、テイタムは、すばらしい身のこなしで、映画の質を上げている。

時代は、完全に変わった。かつての二枚目、マシュー・マコノヒーも、「老醜」で、テイタムを引き立て、ごくろうさま、です。かなりどぎつい40代ストリッパー兼経営者の役は、ほんとうにうまいと思えど、やはり、今は、テイタムが光輝いている。


2013年8月21日水曜日

『浄瑠璃を読もう』──その前に、ドナルド・キーンを読もう


『浄瑠璃を読もう』(橋本治著、2012年7月、新潮社刊)

 ドナルド・キーン氏は、近松門左衛門『国姓爺合戦』の研究論文で、コロンビア大学で博士号を取得してる、いわば、近松の大家である。氏は、題材こそ日本文学であるが、その方法論は、厳密な欧米のメソッドを基礎にしている。その氏の『日本文学史 - 近世篇二 』(中公文庫)は、信憑性のあるデータを駆使、かつ明記して、浄瑠璃の発生から、発展まで、詳述している。それを読めば、橋本治が本書で書いてる説明等は、まったくのでたらめとは言わないまでも、まあ、「テキトー」であることがわかるだろう。しかも、橋本流のパフォーマンスが付いている。江戸時代に書かれたものを無理矢理、現代に置き換えて「言い切って」しまうのも、氏の悪癖(笑)である。
 確かに、着眼点は言い。しかし、これは、あくまで、橋本治の「ショー」であることを心得ておかないと、そののち大変なことになってしまう。話半分、どうぞ、ショーをお楽しみください、である。無知蒙昧の読者に向けて書いているのか、蒙が啓かれたなんて思ったら大間違いである。
 なお、小谷野敦氏が、以下のようなクレームをレビューしておられる。

 「「菅原」「千本桜」「忠臣蔵」の三つが、竹田出雲、並木千柳(宗輔)、三好松洛という、三人の優れた劇作家が書いた、とありますが、「菅原」は初代出雲、あと二つは、はじめ小出雲といった二代出雲でありますから、三人ではないのです。連載中から指摘していたのですが遂に直らなかったのは残念です。一般には宗輔が中心となって書いたとされます」

 どうして、なにを根拠に、以上のような絶大な自信を持って断言できるのかわかりませんが、江戸後期の浄瑠璃は、長大さと複雑さを増し、共同執筆が普通のようで、上のキーン氏の著作では、

『菅原伝授手習鑑』竹田出雲、三好松洛、並木千柳、竹田小出雲(二代目出雲)
『義経千本桜』竹田出雲(二代目)、三好松洛、並木千柳(宗助)、
『仮名手本忠臣蔵』同上
 としているから、ここは、橋本治の方が正しいのでしょう。間違いだと、「間違いで指摘」されても、直せないでしょう、編集部は(笑)。

 江戸時代の浄瑠璃作者は、今日の単行本作者のように明確に名前が著作に印刷されているわけでなし、十返舎一九の『忠臣蔵岡目評判』などに書かれた合作者の分担などをもとに判断するほかないらしい。

 芝居の世界は、さまざまな人々が入り乱れているかなり複雑な世界で、浄瑠璃を文学にしたのは、近松門左衛門だが、そののち、竹田出雲などが出て、これまた、違ったパフォーマンスにしてしまっているわけで、まあ、橋本氏のように、「明快」には語れない世界なのである。

2013年8月17日土曜日

『カラマーゾフの妹』──ドストエフスキーの褌で相撲をとった作品


『カラマーゾフの妹』高野史緒著(講談社、2012年8月刊)

 エンターテインメント系の賞に、芸術的な発想で挑戦する態度は、かなりの期待を感じた。選考委員も、その大胆不敵さに、一票を投じてしまったようである。しかし、同じような、脱構築系のスタイルを持つ、京極夏彦氏と、地道な警察小説の今野敏氏は、厳しい評価をしていたと思う。ことに、今野氏は、本作をまったく認めていなかった。それでも、私は、本作者の意気込みには、どこかやられた感があったので、読み進んだ。しかし、結局、期待は外された。というのも、本作は、いい訳とは思えない、亀山訳をもとに、それを通してのドストエフスキーを土台にしているからだ。しかも、わざわざ枚数を稼ぐような持って回った余分な説明、描写も多い。そして、結末は、なにかはぐらかされたようである。つまり、本書は、ドストエフスキーの褌で相撲を取り、それを取ったら(笑)、なにもないといった作品である。いや〜、まったく残念である。また、作者の「私は文学作品をいっぱい読んでいる、文学に通暁しているプロなのだ」という臭さも、全編に漂っている。そこもいただけない。

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(おまけ)

『新訳源氏物語』初版の序(Kindle版)──Kindleに落ちていた宝物

与謝野晶子訳の『源氏物語』に付属してた、森鴎外と上田敏の、「序」であり、ゆえに、それほど長くないものであるが、両者とも、すばらしい。Kindle、Paperwhiteを所有しているものの、そのコンテンツも、いまいち、読みたいものが完全ではないし、ということで、「消灯後読書」(笑)用として使っていたが、この二作品には、脳みそを洗われた。ありがたい、黄金の落ち穂である。とくに、上田敏の「序」は、古典を新訳で読む意味を、奥深い段階で説いている。


2013年8月16日金曜日

『ワールド・ウォーZ』──ヒーローの職業はUN(国連)の時代


『ワールド・ウォーZ』マーク・フォースター監督

 これまでも「ゾンビ映画」はそれなりに見ていた。「オバタリアン」という言葉のもとになった、「バタリアン」しかり。しかし、なにか科学的な原因があって、ひとがゾンビ化したという内容ではなかったように思う。本作は、なるほど、俗に「ゾンビ映画」と呼ばれるものに属するかもしれないが、過去のゾンビものとは違って、今という時代を、警告も含めて写し取っていると思う。バイトの若者店員が、勤務先の冷蔵庫などに入って写真を写し、Twetter等に投稿して喜ぶ現象も、ある意味、脳みその「ゾンビ化」ということができる。つまり、そういう時代になってしまったのである。

 病死した牛の骨粉の混じったエサを与え、「共食い」させていた牛の脳みそが狂牛病に冒されたのもしかり。それが、われわれの「ワールド・ウォー」である。

 『セブン』で、血と傷が似合う美形を証明したブラピが、本作でも、汚れ、苦しむ。しかし、どこか安心して見ていられるのは、このヒーローのせいである。かつてのゾンビ映画に、このようなヒーローはいなかった。しかも、CIAがかっこいい時代は終わって、UN(国連)である。ブラピが、CIAの職員に、「あんたは誰だ?」と聞かれ、「UN」と答えるところは、さりげなくかっこいい。そして世界は、「とりあえず」このヒーローによって、救われる。

2013年7月25日木曜日

『銀河鉄道の彼方に』──賢治からごっそりいただいた作品


『銀河鉄道の彼方に』高橋源一郎著(集英社、2013年6月刊)

 本作が「本歌」としている、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、勤労少年ジョバンニの、ほぼ心象風景といっていい世界を、賢治の生きた日本の東北の村を、どこか、ヨーロッパチックに、さらに言えば、イタリアチック(ジョバンニなどという名前がイタリア名である)に仕立てたものである。けれど、子ども時代の心の動きは、リアルなもので、その昔、どこにでもあり得た、「子どもの水死」を、痛々しいまでの透明感と美しさで描いている。この物語を読んだら、人は、いてもたってもいられず、なにか、自分で、自分の物語を紡ぎ始めてしまうかもしれない──。
 日本の職業作家である高橋源一郎は、そういうものを十分承知のうえ、賢治が死んで、この世にいないことをいいことに、そして、世間の読者が、思ったほど原作を読んでいないことをいいことに、この作の魅力をごっそりいただいて、あとは、勝手な、今風の話題を支離滅裂(コラージュという、言い訳もできるが)に綴り合わせ、「メタ小説」に仕上げている。
 事実、冒頭数ページは、『銀河鉄道の夜』まんまである。また、本書の厚さに、そそっかしい読者は、「大作」と信じてしまうが、550ページほどある本ではあるが、400字詰原稿用紙にして、800枚あるかどうか。後半へいけば、頻繁な行替え、かなりの空白が目立ち(笑)、なんと、活字も、劇画のようにでかくなっているページも何ページもある(それらのページは、50字くらいしか入っていない)。私は、この作者に、何度もはぐらかされているが、それでも、今回もむなしい期待を抱いた。冒頭が、「まんま」なら、せめて最後に、もう一度、G**が現れて、原作を「脱構築」してくれるのではないか? しかし、毎度の、(ここだけは)日本文学的感傷っぽい終わりである。終わりは、「宮本輝」である(笑)。なんでか知らないが、毎回、こんなである。たぶん、この作者の体質だろう(笑)。なるほど、「メタ小説」なので、途中、「原稿を書く私」も出てくる。しかし、それは、クサい物語に内包されてしまうので、ほんとうのメタなのかも怪しいものである。

2013年7月24日水曜日

内田樹氏のコラム「複雑な解釈」(「朝日新聞」2013年7月22日付東京版朝刊」)に思う。──それは、そのとおりなんですけど……。


Facebookの友だちリンクを辿っていった先の、「友だち」じゃない人が話題にしていて、何人もが「そうだ、そうだ」と賛同していたので、内田樹氏が、「朝日新聞」の22日付朝刊だかに寄稿したコラムを、「朝日」はとってないので、デジタル版まで読みにいった(要「登録」)。

http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307220692.html

 論旨は、今回の参院選で多くの国民は、自民党、公明党、共産党など、「一枚岩」と考えられる党に投票したが、それは、メディアが騒ぎ立てる「ねじれ解消」を意識し、即効性のある党を選んだ、まるで、ビジネスにおける選択のように。しかし、本来、民主主義とは、「ねじれ」に、歯止めをかけるものだ。だから、民主主義の根幹であるのに、子孫のための将来より、今がよければよいという選択をした、と、内田氏は見る──。 と、まあ、だいたいそんなことであって、この結論(「ねじれ」こそ、民主主義の本意である)には、そのとおりだと言わざるを得ない。しかし、気になったのは、そこへもっていく「手法」、分析のしかたである。そもそも、自民党って、「一枚岩」なのだろうか? という疑問がある。民主党の基盤を作った小沢一郎氏が出てくる以前から、さまざまな考えや立場の政治家たちを内包した党ではなかったか。まあ、それはいいとして、今回の選挙結果が、人々が、「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を求めた結果だともしているが、果たしてそうだろうか。
 私は、「圧勝の自民党」と、「躍進の共産党」の意味するものは、「貧富の格差」が選挙結果に出たのではないかと思う。確かに、民主党は、党内の結束がうまくいかず、選挙民に、くっきりとしたイメージを与えることができず、それが「歴史的敗北」の一因を作ったのかもしれないが、これは、中流層がそれだけ薄くなり、富の二極化が著しくなっているせいではないのか。老いも若きも、貧乏人は、共産党の具体的な施策に頼み、リッチピープルは、アベノミクスでさらなるリッチを目指す──。それにしても、「圧勝の自民党」の数を見れば、それほど金持ちがいるはずはないのだが、それは、「リッチを夢見る」人々(自民党に投票した人々の大部分、ということもできるが(笑))も含んでいる「宝くじ現象」ではないのか(笑)──。
 と、まあ、こんなふうに分析できるわけで、内田氏の分析方法は、まるで、日本国民が「一枚岩」(=ビジネスマンのように思考する中流で、それが薄くなりつつあることを露わにしたのが今回の選挙)の設定である。つまり、状況分析は私の考えと真逆である。だから、それはそのとおり、と思いながら、どこかに危険な匂いを嗅ぎとってしまうのである。



2013年7月20日土曜日

『現代思想』2013年7月号「特集ネグリ+ハート」──編集部員はほんとうに「思考」しているのか?


『現代思想』2013年7月号「特集ネグリ+ハート」(青土社)

 フランスの「現代思想」家、フーコー、ドゥルーズ、デリダなきあと、「舞台」は、イタリアに移ったかに見える。なるほど、イタリアの「現代思想家」の方が、より身近で、コンテンポランな感じがする。その百花繚乱の「イタリア現代思想家」のなかでも、アントニオ・ネグリは、主張が、「日本人にわかりやすい」。キーワードは、「マルクス主義」、「民衆」、「帝国」などである。その「ネグリさん」が、この春、日本を訪れ、3.11以後の、マルチチュード=民衆の、反原発などの運動を観察していったようである。そのインタビューや、(私は知らなかったが)フクシマの草の根女性隊を牽引しているらしい、上野千鶴子センセイの講演の原稿などが載っている。ネグリは、日本を、「原子力国家」と規定し、その権力は、外部へというより、内部に向かうと指摘しているところは興味深い。しかし、である、なんで、わざわざ、「外国の思想家」に、日本の今の状況を分析してもらわねばならないのか。また、上野センセイの、草の根の支持はいいけれど、いつも「女」という既存の枠内でものを言っているのが気になる。私は決して保守主義者ではないが、今さら、「マルクス主義」でもあるまい。かつては、スルドイテーマを提示していたような気がする本誌『現代思想』も、どうも安きに流れているのではないか。それに、活字が小さすぎる(笑)!
 日本の今の状況を「思想」で問うなら、たとえば、古在由重が、古い岩波新書の『思想とはなにか』で問題提起しているように、

 「一九六〇年の五月一九日から一カ月あまりにおよぶ安保条約改定をめぐっての歴史の激動。これこそまさにこのような創造的な日々だった」

 「五月一九日から二〇日へかけての深夜、政府とその与党は衆議院に警官隊をひきいれ、この力をかりて悪評たかいこの条約を強行採決した」

 ちなみに、その時の、首相は、現首相の、祖父、岸信介である。

 少なくとも、日本の「現代思想」の政治的局面、あるいは、ネグリ的な思想家を呼ぶなら、そこから、思考を始めるべきではないか? 外国の運動家のオハナシばかり聴いている場合ではない。


2013年6月16日日曜日

『6月16日の花火』──やはり学者(悪い意味で)


『6月16日の花火』(丸谷才一著、1986年、岩波書店刊)

本日は、「ブルームズデイ」。つまり、ジョイスの『ユリシーズ』の物語が展開される1日。1904年6月16日、この日1日だけを描いています。Kindle版の「ジョイス全集」の『ユリシーズ』には、この日、ジョイスは、のちに妻となる、ノラ・バーナクルと初デートをした。と、よけいな情報まで載せています(笑)。
 どこかエラそうな丸谷才一の本作、かなりの年月積ん読状態でしたが、題名に惹かれて、なんとなく本日繙いてみました(なんで、「花火」かというと、世界のジョイスファンがこの日、花火をあげて、お祝い(なんで?)するからんです)。ジョイスの『ユリシーズ』について、よほど興味深いことが書いてあるのかなと思いましたが、そうでもなかった(笑)。この人、卒論だったかが、ジェームズ・ジョイスで、修士でもあって、一応、ジョイス学者なんです。ただ『ユリシーズ』を訳してたわけじゃなかったんですね(笑)。でも、その前は、伊藤整が翻訳紹介してます。それを読んだのでしょう、丸谷クンは。で、その伊藤整は、これからのわが国の小説は、「意識の流れを重視する小説だ!」と言っているんです。でも、この「意識の流れ」という概念を提唱したのは、ヘンリー・ジェームズの兄の心理学者のウィリアムズ・ジェームズなんです。
 で、小林秀雄が、それに反論しています。「なにが、ジョイスだ。意識の流れだ。そういうものも、意匠にすぎんのだ!」(長くなるので、このあたりはべつの機会にします)。当然、小林秀雄は、1922年に出版された『ユリシーズ』を、仏訳で読んでます。なぜ、仏訳だったのか? 英語の原書が入手しにくかったのか? 伊藤整の日本語訳を読みたくなかったのか(笑)。この伊藤整の系譜は、おそらく連綿と、丸谷才一に受け継がれ、その後、ジョイスと聞くと、やたら特別扱いして奉る傾向の日本人の文学愛好家に受け継がれているようです。
 小林秀雄は、「学者はだめだ!」と言っている。そして、まさにその意味で、丸谷才一は「学者」であることが、本書を読むとよくわかります。とりわけ、エドモンド・ウィルソンのジョイス論で、『ユリシーズ』の結末の仄めかしとして、

 スティーヴンがこの出会ひ(ブルームとの)の結果として、ダブリンを去り、『ユリシーズ』を書くことである。

 と、書いているのにけちをつけ、「スティーヴンは『ユリシーズ』の作中人物であって、作者ではない」なんて、書いている。マジかよ?と思って、よく読んでみましたが、大まじめのようです。つまり、ウィルソンが仄めかしていることは、プルーストの『失われた時を求めて』と、同じ構造を言っているのであるが、どうもそれに気がつけないようであった。『失われた……』は1927年に最終巻が出て、丸谷才一は、1925年の生まれで、その後、日本にはきっとなかなか入って来なかったんでしょう。そして、この丸谷の論文は、1982年に「すばる」に発表されています。いくらでも、訂正の機会はあったと思いますがねえ……。というわけで、それから先、すっかり読み進む意欲をなくした私です。さういへば、『横しぐれ』も大したことがいはれていたわけではなかつたな、と、急に旧かなづかひになつたりして……(笑)。

2013年6月13日木曜日

『太陽の季節』──ありえない世界を描ききる


『太陽の季節』(石原慎太郎著、新潮文庫ほか) 

 私は、本作を、講談社の『現代短編名作選5』に収録されたもので、たった今読んだ。このシリーズは、日本文芸家協会が編んだもので、年代順(1945年から)全6巻である。一応、1巻から読んでいるのだが、田中慎弥の「共喰い」のレビューの前に、「閣下」の芥川賞受賞作って、どんなだろう(笑)と、5巻に収められた本作を読んだしだいである。
 確かに、嫌悪感を催すような青年が主人公であり、書き方も、書かれている風俗も、まともに生きる普通の日本人が、嫌悪や反感を持つような内容である。それでも、これが、おフランスなら、たぶん、事情も違ってくるし、こういう人々(「太陽族」と、当時は言われたようであるが、私はよくは知らない(笑))も現実に存在したであろう。
 どーでもいいが、冷静に読めば、この主人公は、「ハイスクール」に行っている「高校生」だぜ〜!!。小学生でも車の運転をしている、『鉄人28号』の正太郎クンを思い出してしまったゼ。その高校生が、ナイトクラブで遊んだり、父親の使う料亭で女と食事をしたり、なんにもの女遍歴を持っていたり、ヨットや別荘で遊んだりする。主人公の龍哉は、自宅の離れを居室にしていて、二間ある。女といろいろ交渉しても、おとなは、父親が、「パパはそんなに金持ちじゃない」なんて、甘ったれのピチブル台詞を吐く他は、まったく出てこない。教員も、いっさい、口うるさいおとなは出てこない。けんかをやっても、キャバレーの「女給」(こんな言葉は、Atokでは変換されない(笑))と騒いでも、すべて、高校生たちだけの世界である。そんなのありえな〜い。確かに、主人公の龍哉は、弟の裕次郎を彷彿とさせる。しかし、これは、完全に架空の世界と見た。それを、ここまで(400字詰換算、110枚くらい)描ききるのだから、まあ、とりあえずは、「昭和の名短編」のひとつじゃないんですか? 作者がその後、どのような生き方をしようが、私はどうでもいい(しかし、これほど、多くの人に憎まれているのに、なんで、都知事に当選したんですかね〜?)

 蛇足ながら、「維新の会」のメンバーで、本作を読んでいる人は、何人くらいいるのだろうか(笑)?

2013年6月3日月曜日

『世界』2013年6月号──立憲主義の危機への警鐘


『世界』2013年6月号「特集:『96条からの改憲」に抗する』
(岩波書店)
 
 Twitterなど、有名無名を問わず、政治的なことに関して、自分の考えをどんどん述べるのがあたりまえの世の中になって、知識があってもなくても、裏付けがあってもなくても、学識があってもなくても、政治に首を突っ込んでいる人々が、ニュース記事を見ては、がやがやと、そのニュースを知ることに「使った」マスコミ批判を含めて、騒がしい。われこそは、国の行方をほんとうに心配している、われの意見に耳を傾けろ──!

 こうした人々はいったい何を根拠に、自分の主張を正しいと信じるのか? 多数の人々がそう言っているから? 圧倒的多数によって勝利した自民党がそう主張しているから? あるいは、自民党支持の学者の説明に頷けるから?
 そんななか、『世界』2013年6月号の特集『「96条からの改憲」に抗する』は、少なくともネット上で自説をがなりたてている人々より、多少はまともにものを考えられる人々に向けられている。

 なかでも、伊藤真「なぜ96条を変えてはいけないのか」は、憲法を血肉としている人の論文として、傾聴に値する。

 すなわち、立憲主義の危機である。立憲主義とは、ナポレオン帝政やナチスドイツに見られるような、「多数派」政治が行きすぎたとき、少数派の個人を守るようにできあがっている政治体制であると、伊藤は言う。そして、96条は、その立憲主義思想の「生命線」であると。

 「国民の多数派が熱狂的に戦争を支持した戦前の日本も同様だった。不正確な情報に踊らされ、ムードに流され、目先のことしか見えなくなり、冷静で正しい判断ができなくなる危険性が、私たちの社会にはいつも付いてまわる。
 それを避けるために、人間の弱さに着目して、あらかじめ多数意志に基づく行動に歯止めをかけることが必要であり、その仕組みこそが憲法なのである。多数決で決めるべきこともあるけれども、多数決で決めてはいけないこともある。多数決でも変えてはならない価値を前もって憲法の中に書き込み、多数決意思を反映した国家権力を制限する。これが立憲主義という法思想である」

 自民党の目指すところは、参院選で圧勝し、96条を改正し、憲法を簡単に改正できるようにし、自衛隊を軍隊とする。そうしてアメリカとの絆を強め、アメリカと同等の大国として世界の覇者となることである。
 しかし、伊藤は言う。自衛隊を国防軍にすれば、防衛費はさらに必要になり、戦争をも辞さないことになる。
 「戦争とは敵の兵士を殺すことであり、軍隊とは兵士を殺す組織である」
「そうなると日本は、殺人目的の組織を市民社会に抱えることになる。これは市民社会にとって脅威である。市民社会は命を尊び、個人の自主性・自律性を尊重するのに対して、軍は人を殺し、組織への絶対服従を求める。軍隊の新兵訓練では、兵士になるために人間の尊厳を否定する訓練を受ける。在日米軍の兵士が性暴力等の犯罪を起こすのはそこにも原因がある。国防軍ができれば、兵士による犯罪事件は日本全国に広がる可能性がある」

 ──そこで、橋下大阪市長の言う、「風俗サービスが必要」になるか。おそらく、そういう「措置」を取ろうとも、「人間の尊厳を否定する訓練を受けた」兵士は、犯罪を犯すだろう。しかも、今度は、「日本兵」が……ということになる。
 ネット上の、ジャーナリストの論考にも、米兵による犯罪はこんなに多い、橋下氏の訴えたかったことはそこに力点があるのではないか、という考えのものも見られる。伊藤氏のまっとうな論考からすれば、本末転倒も甚だしいだろう。



『日本近代史 』──「世界史」の前に、「日本近代史」を!


『日本近代史』(坂野 潤治著、ちくま新書、2012年3月刊)

 2.26事件を扱った、久世光彦の『陛下』という小説を読んで、実際のところはどうなんだろう? と、やはり、買ってあった、本書を紐解いた。著者は資料を丹念に読み、分析を重ねるという手法で、「歴史を記述」していく。そう、歴史とは、なによりも「歴史家の記述」なのだ。
 昨今ともすれば、太平洋戦争が、「避けられなかった太平洋における覇権争い」だなどと、まるで、歴史をゲームのように見るような態度が当然のようになっているが、本書を読めば、ひとつひとつのできごとに、作られたドラマではない、人間の思惑が非常な複雑さで絡み合っているのがわかる。本書に比べ、教科書の歴史は、あまりに大雑把すぎるし、正確さも欠いている。
 政治家の「国際感覚の欠如」うんぬんが言われる昨今であるが、どうも、「国際感覚」よりも、もっと自国の近代史について精細に謙虚に学ぶべきであろう。
 なお、本書は、冒頭の明治維新へと至る時代から読んでいくと、あまりに入り組みすぎて、昭和に至るまでには息切れしてしまうかもしれない。オススメの読み方としては、最終章から逆に遡るかたちで読むと頭に入りやすい。あるいは、関心のある時代、事件から入っていく──。
 ひとつ難点を言えば、たとえば、本書を読んで、まるで「戦前」が、国会議員には、憲法(「明治憲法」である)で、言論の自由が保証されているからと言って、一般人民にもそれが許されていると思ったら大間違いである。本書には記述がないが、2.26事件に関連して、事件になんら関与していなかったにもかかわらず、思想的に「そそのかした」ということで、北一輝が、民間人にもかかわらず、軍法会議にかけられ、弁護人抜き、抗告抜きで、数日後に、銃殺刑に処せられているという実態もある。本書には、そうした「批判的記述」はない。

2013年5月29日水曜日

『abさんご』──後半「楽屋」が見えてくるのが惜しい(笑)



『abさんご』(黒田夏子著、2013年1月、文藝春秋刊)

 私は本作を読んで、すぐは、「紫式部日記」のような日本語の清逸な世界を感じさせて、なかなかよいと思った。まず、導入部など、唐突なはじまりがよいし、a地点からb地点という、説明のない抽象性は、言葉そのものの手触りを感じさせて、さすが、蓮實重彦の選んだ作だと思った。まず、蓮實氏は、「日本語を私に教えてくれる作品、どきどきさせてくれるものを望む」と、早稲田文学新人賞の選考委員を務めるにあたって表明していた。それにかなう作品だという印象を持った。
 しかし読み進むうち、書き手がその抽象性に耐えられず、しだいに、物語が「透けて見えて」しまう。これは、幼くして母を失い、初めは家政婦として来た女が父の後妻におさまり、主人公の少女(=私)は、自立を余儀なくされる、ルサンチマンの物語。固有名詞はいっさい使わず、これだけのものが見えてしまうのである。こういったスタイルは、フランスの作家、ナタリー・サロートを思わせるが、サロートなどは、そういう状態で、数百ページを書いてしまう思想の強靱さがある。が、この作者は持続できず、変換可能な物語へと収束してしまう。
 また、横書きの表記はいかにも、現代にかなっているようだが、石川九楊が『縦に書け!――横書きが日本人を壊す』(祥伝社新書310)で言っているように、英語がアルファベットが横に、筆記体で続けて書けるような生理を内包しているように、日本語は、縦に続けて無理なく書けるような生理を含んでいる。それをことさら、(PC画面ではない)紙の上でも横に書くということは、アルファベットを縦に書くようなものだ。
 それが、みやびな文体と相矛盾して、その矛盾が「新しいスタイル」と言えるのかどうか。この著者は、実は、この「デビュー作」以前に、おそらく自費出版ではないかと思われる著書、『累成体明寂』があり、たまたま、早稲田文学の新人賞の選考委員を、蓮實重彦が担当することになり、おそらく周辺ではすでに知られたヒトだったのが、それを「狙い撃ち」したのではないかと、私などは推測する。まあ、だからといって、慶賀すべきことに変わりはないのだが……
 しかし、このヒト、その後の作品は、どのように書いていくつもりなんでせう(笑)?

2013年5月27日月曜日

『半島』──ジュリアン・グラック+古井由吉


『半島』(松浦寿輝著、文春文庫、2007年7月刊)

 本作の題名を見て、すぐに思い出されたのは、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』である。『シルトの岸辺』も、『半島』のように、「拝命」、「海図室』、「会話」など、小題が立てられている。イタリア自治都市を思わせる架空の国オルセンナの、シルト海を隔てた敵国ファルゲスタンを防諜する命を受けた名門出の「私」の、カフカ的とも言える不条理の物語。この小説が、『半島』の作者の脳裏にまったくなかったとは思えない。それと、『半島』の作者があこがれる作家、古井由吉の、輪郭のぼんやりしたような世界の、なまめかしい描写。このふたつが、この作者をして、『半島』の筆を進めさせたと考えられる。
 だが、残念ながら、本作は、グラックの強靱な思想も、古井由吉の艶めかしさも持ち得なかった。ただ、文庫解説者の、「東京大学教授」山内昌之の、まとはずれな門外漢の賞賛を得たにすぎない。あ、「読売文学賞」も。それにしても、この著者は、同賞といい、詩では高見順賞、小説では芥川賞、仕事は東大教授(今は退官されたが)、およそ文化に携わる者のあこがれる、ほとんどすべてを手に入れていて、それで、『半島』の主人公が、大学を辞め、人生をどうしたものか、憂えているような中年男と言われても、ほとんどの読者は共感を持ち得ないと思う。それになにより本作には、書く喜びが感じられない。作者自身が、こんな世界を信じていないのではないか。グラックの書く世界は架空ながら、リアリティがある。しかし、本作は、あまりに抽象的すぎて、絵空事そのものである。作者はなんの実感もないまま書いたのではないか? 実感とは、かつて訪れた外国の都市の、細部を知識として知っている、ということではない。また、個人的な思い出でもない。おのれの腹のうちを見せるという覚悟である。私は好みではないが、少なくとも、松浦の「師匠」、古井由吉にはそれがある。それは、某女性作家との色恋沙汰ぐらいどーってことないと呑み込んでいく居直りなのかもしれない。

2013年5月23日木曜日

『中国の隠者』──1973年岩波発の驚愕の「お手軽本」 のアンコール復刊 


 『中国の隠者』(富士正晴著、197310月岩波新書初版、20134月復刊)

「中国の隠者」という題名は確かに関心をひく。しかし、著者は中国の専門家ではなく、吉川幸次郎(中国文学者)や貝塚茂樹(中国歴史学者)の文献を引用して、私見(分析的というより、空想的なもの)をあれこれを書き連ねているだけ。一応、「アンコール復刊」の一冊で、そういう本は、なかなか中身の深い本があるが、こと本書にかぎっては、今のお手軽新書と全然変わらない。昔(1973年)にも、こういう「お手軽本」が堂々と、しかも「岩波」から出ていたというのは驚きである。漢書に関する書籍というと、漢字も多く、中身もありそうに見えるからか。こういう本で困るのは、テキトーな史実を書かれることである。
 曰く、「その証拠に、魯迅だって、毛沢東だって、大の君子ぎらいではないか。儒者ぎらいといってもいい」。されど、『論語』は中国では避けて通ることはできず、あの毛沢東でさえ、おろらく暗唱していたであろうと、吉川幸次郎は『「論語」の話 (ちくま学芸文庫)』で書いている。←この本の方を、強くオススメします。



2013年5月17日金曜日

『橋下徹氏とその支持者たちの「国際常識」欠如に関する考察』

>民主党の細野豪志幹事長が16日の記者会見で「極右政党ということを認めたようにしか見えない」と批判するなど、維新は窮地に陥ろうとしている。

上記は、民主党の細野氏の見解だが、NYTimesのブロッガーも、実際にそう書いている。

「He's known for provocative right-wing statements,……」(「彼は挑発的な右翼的声明で知られている……」)

http://takingnote.blogs.nytimes.com/2013/05/15/did-japan-need-comfort-women/


>社民党の福島瑞穂党首ら女性議員11人も同日、そろって記者会見し、撤回と謝罪を求めた。橋下氏はこれに先立ちフジテレビ番組に出演。風俗業の活用を勧めた発言について、「表現の拙さがあった」「あまりに国際的な感覚が乏しかった。(発言が)買春、売春と受け取られたことは反省すべきだ」と謝罪した。(mns産経ニュース2013.5.16 23:01より)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130516/stt13051623350017-n1.htm

これは、まったく世界的趨勢としてもこの通りで、「国際的感覚」というより、「国際的常識」がなさすぎるにもほどがある。しかし、ことひとり、橋下氏だけの問題ではなく、ブログやTwitterなど、ネット上で橋下氏ら「右翼」グループを擁護している人々にも言えることである。
一応、総理である、安倍首相は、「国際的常識」を持っていると見えて、橋下氏に反論している。
しかし、それ見たことかと、橋下氏を切り捨ててもオシマイにしてもしょうがない。
まず、第一に、「従軍慰安婦」という「婉曲表現」である。これは、NYTのブロッガーも、

「the Japanese euphemism is ーcomfort womenー for the Japanese Army」(日本的な婉曲表現ではー慰安婦ー軍隊のための」)と書いている。そして実態は、「wartime rape and sexual enslavement」(「戦時のレイプと性的奴隷」)という表現を使っている。私もそうだと思っていたので、やはり欧米でもそういう認識かと思った。

この認識は、「世界のBBC」も、同じである。

http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-22519384

BBCの場合は、記者の個人的ブログではなく、公式に記事に、
「Some 200,000 women in territories occupied by Japan during WWII are estimated to have been forced to become sex slaves for troops」と書いている。

つまり、世界的なメディアの認識として、橋下氏の発言は、「戦争に売春はつきものだ」(石原慎太郎氏の意見であるが、さすが「作家」なので、表現がうまい(笑))どころではなく、「戦時に、レイプは必要だった」ということになるのである。常々、NYTとかBBCを読んでいれば、そういう感覚も育つだろうが、まあ、なんか国内の駆け引きだけに終始した結果なんでせうか。確かに、フランスにもドイツにも極右はいるが、「レイプが必要だった」と「堂々と」言った(ことに、すでになっている)政治家はいない。

この錯綜が今後どうなるか、私は知らない。



2013年5月12日日曜日

『文学界2013年6月号』── もはや文芸誌は出版社のPR誌


『文学界2013年6月号』(文藝春秋)

 ひさびさに新作の小説でも読んでみようと本書を購入したら、(当然のことながら、というべきか)「村上春樹特集」であった。都合のよいことに(笑)この号で、発表される「新人賞」は、今回「受賞作なし」。雑誌の発売日からして、本誌に、村上の新作の論考を寄せている面々は、文面にはおくびに出してないが、4月12日の発売以前の、「トップシークレット期間」(笑)に、『多崎つくる』を読んだに違いない。そういう状況にあれば、『つくる』を酷評はさておくとしても、批判的なことを書けるはずもない。まあ、メンツも「それなりに」揃えてあるわけですが……(笑)。論考は以下の順である(長さは、400字詰換算、20枚から50枚程度と推定される)。

 沼野充義→「傷」「巡礼」の検証なく、書かれてあるままに「おごそかに」受け止め、その書かれ方には、なんら疑いを挟むことなく、まるで世界の古典を解説するように解説していく。文庫解説な文章(笑)。

 内田樹→あろうことか、村上春樹と上田秋成を同列に並べ、無理矢理共通点を見出している(笑)。この「批評のスタイル」は、「60年代の批評理論スタイル」なんだそう。1行目に、「小説を論じるときに『主題とは何か?』というような問いかけから始まるアプローチはずいぶん時代遅れのものだ」と、「60年代の批評理論」を援用。でもサ、60年代って、いったい何年前? この論考は、(あこがれの村上春樹の新作がひとより先に読め、しかも、それについての文章も書かせてもらえることになって)うれしくて舞い上がったのか、文章自体が支離滅裂。

 鴻巣友季子→あろうことか、村上春樹とラブレーを同列に並べ、以下は、ゲームの解説本のように、延々と「読み解いている」。

 鈴村和成→あろうことか、村上春樹と谷崎潤一郎を、「同等」の作家として取り扱い、谷崎と村上が、私生活で移動した地域などを解説(それが文学的に、なにか意味があるのか)。いちばん長く、50枚くらいなのかな〜?

 上記の面々に共通していることは、村上春樹を、いっさい批判してはならない「世界的な大作家」として扱い、かつ、『多崎つくる』を、厳粛に扱われることになんの疑問も感じない、大傑作として扱っている。
しかしながら、すでにおかしいのは、歴史に残る古典さえ批判されることはあり得るのに、ここにはその余地はかけらもないことである。

 いまの文学界とは、そのようなものであり、よって、「新人賞は受賞作なし」でも、しかたないのかな〜って状況。

 まあ、まっとうな文学者なら、『多崎』などは、批評の対象にはしないと思うけどね。

 上記の人々は、「悪魔に魂を売ってしまった」証拠をここに残しているんですね(笑)。

2013年5月10日金曜日

懲りないのは村上春樹だけじゃない(笑)@平成のマウス絵師


 この画像を作製したのが、すでに6年前……「最後にしてくれ」と思ったのに、アーサー・ヒルと組んで、老老コンビの題名ど忘れ(笑)新作がまた公開される懲りないスタローン(66歳→70ぐらいかと思ったら、意外に若い(笑))である(世界の趨勢にはなんの意味も影響もないんですが……(笑))。

"Rocky, please...."give up"....






2013年4月25日木曜日

『国境のインテリジェンス』──「教科書勉強」だけでは、どうしようもない


 私はこの著者の勉強法の本には感心し、Amazonレビューでも★五つをつけていると思います。そういう著者であったし、タイトル、見出しにも大変興味深いものがありましたので、本書を見るや、即購入しました。しかし、読み始めて、疑問が頭をもたげ、大変残念に思いました。

 1,P17 著者は、アベノミクスの理論的支柱、浜田宏一氏の著書を引用(その部分は、岩田規久男氏など、私が信頼をおく学者も書いている、ごく一般的な、金融緩和の考え)、「この記述を読んで、筆者は背筋が寒くなった」とあるが、なぜ? という経済学的な説明はなく、すぐ、べつの話に切り替わっていった。

 2,P19 著者は、安倍政権の内閣官房副長官補をつとめる、兼原信克氏の著書を引用、宗教改革がイタリアから始まったは、間違いと指摘、フスはスフと誤記されていることを指摘。それはいいが、実は、もうひとり名前が書かれている宗教改革者、サヴォナロラ(Girolamo Savonarola)も、「サヴォローナ」と誤記されているが、これについての言及はいっさいない。つまり、著者の「勉強」は、宗教の歴史も、「通説」と「教科書」だけに頼ってきた感がある。宗教改革は、ルネッサンスの一部として始まったので、著者の言うように、イタリア発祥説は、とくに「珍説」ではない(参考文献『ミケルアンジェロ』羽仁五郎著、岩波新書)。

 3,P24 著者は、経済理論として、野口悠紀雄説を頭から信じ、「野口氏の分析が正しいならば、現在進行中の円安は、崩壊の序曲なのである」で、「アベノミクス指南役たちの危うさ」という章を終えている。野口説は、金融緩和に反対で、金利をあげろ!であるが、金利が上がって生活の支えができるほどの預金を持っている「一般庶民」がどれだけいるのか、考えれば、この説の「抽象性」がわかろうというもの。

 第1章にあたる章で、以上のようなことにひっかかり、これ以上、本書を読み進むのは時間の無駄だと思いました。

 ただの「教科書の勉強」だけではどうにもならない証左でした。教養は、まっとうな古典を読むことでしか築けないとつくづく思いました。また、インテリジェンスも、古典力なしに、分析は不可能だと思います。

 ちなみに、私は、安倍政権はとくに支持していませんが、やっていることは世界の常識に沿っているのかなあ……程度の感じは持っている。

 本書の初出が『週刊アサヒ芸能』だと知って、「なるほど……」と思いました。一事が万事ですので、こういう本を出してしまうと、もう著者を信じるわけにはいかなくなります。ご用心!

2013年4月13日土曜日

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』──読まずにすませろ(笑)!


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹著(文藝春秋、2013年4月15日刊(と、奥付には印刷してある)

 3月中に、題名が発表になり、題名を見て、「巡礼の年」という言葉に大変想像力を刺激された。本書の中でも言及されていたが、リストの「巡礼の年」を思い出したし、本書ではなんのほのめかしもなかったが、リルケの詩「巡礼の巻」を連想したからだ。しかも「巡礼」→十字軍という事柄さえ思い浮かべたが、そういう高尚なものとはまったく無縁で、著者には、そのような教養、古典の下地(したじ)もないようだった。

 簡単に言えば、本書は、"毎度の"ストーリーでのみできあがっている(400字詰原稿用紙換算、700枚前後)。

 主人公、多崎つくるが、大学の2年に、高校時代からの親友4人から、理由を明かされないまま絶交を言い渡され、死を考える。そんななか、後輩の男と知り合い、リストの「巡礼の年」と、それにまつわるエピソードを知る。以上のような経歴を、小説の現在である時間の恋人に語って聞かせ、彼女の勧めと協力で、なぜ多崎が4人の友人に絶交されたかを探っていく。あいだにはさまれる、「行方不明」「殺人」。推理小説のようには、犯人も理由も明かされない。それは、あくまで、物語をミステリアスにするための装飾である。
 ちなみに、高校時代の4人の親友の名前が、白、黒、赤、青、という文字が名字に入っているが、これは、中国神話の四神で、司っている東西南北を表す色である。これは、小説(庄司薫とか(笑))やゲームなどに、結構使われている。そして本書では、やはり思わせぶりの装飾の域を出ていない。

 小説が文学であるためには、それが事実であるかどうかという意味ではなく、リアリティというものが必要である。また、エンターテインメントであるためには、該博な知識が必要になってくる。本著者のように、ただ感覚的なものだけで押していくと、なにを語っても抽象的になり、数作はそれでもいいかもしれないが、やがて、自己模倣の隘路へと入り込んでいく。日本の文壇からは完全に無視されている著者であるが、ただバカ売れしている書き手に対する嫉妬からだけとも言い得ない。このような「お話」は、文学とは言えない。ただそれだけである。
 それにしても、大学生にもなって、高校時代の仲間に絶交されただけで、死を考え、結局それを実行できない人物というのは、昨今、追い詰められて、どんどん死んでしまう小中学生が存在する現実に対して、どうなんでしょう? 著者はニュースすら見ていないのかもしれないと勘ぐってしまう。

 綿矢りさは、十代で女子高校生の世界を描き注目されたが、十年経った今も、女子高校生の世界を描いている。このぶんで行けば、十年後も描いているかもしれない。同様に、とうに還暦すぎた村上春樹が、いまだ、高校時代の人間関係で傷つき死を考える青年を描いているのを見ると、これは、70歳になっても、こういう世界を描き続けるのかな、と人ごとながら思う。まあ、行けるところまで行ってください(合掌)。次は、どのような興味深い題名でも、Amazonで予約をしてしまうという愚は犯さないようにしますから。



2013年4月8日月曜日

小林秀雄と河上徹太郎の対談(季刊『考える人』 2013年 05月号付録のCD)──今こそ必要な小林秀雄


 小林秀雄と河上徹太郎の対談CD(季刊『考える人』 2013 05月号付録、新潮社、201344日刊)

 「本を読もう!」みたいな本が巷に出回っている。それも、ビジネスで成功した人であったり、世の中をうまく渡ってきたような人々が書いた本だ。考えてみれば、あえて本を読もうなどということ(だけ)で本が書けるほど、本を読むことは特別なことになってしまった。しかもこれらの人々の提示する本は、大部分が読み捨てのような本であり、なんら訓練なしに読めるような類の本である。それらを何千冊読もうと、教養ある人間を作りはしない。
 小林秀雄は、重要な古典を読んでいることが自明の下地(したじ)であった時代においても、常に問題を投げかける論客であったが、今の時代も、氏の思想は重要である。いや、今こそ、小林秀雄を再読すべきだと思っている。そんな小林の、一般の若者に向かって語りかけている講演CDは、何度聴いても発見することがあり、聴き飽きるということがないが、本書の一番の価値である、付録のCDに収録されている河上徹太郎との対談は、60年来の友人同士の闊達なやりとりで、べつの魅力に溢れている。ほろ酔いかげんでもポイントは外さず、深い問題提起、引用が次々なされ、どんなエラい大学教授の講義よりも中身が濃い。
 小林秀雄の語りは、何度聴いても、発見することがあり、また、自分だけに語りかけてくれるような暖かみも感じられる。真の教養人とはこのような人々だと納得させられる。小林秀雄の語りには天才的な華麗さがあるが、河上徹太郎の抑制の効いた「受け」もすばらしい。もうこのような人々はどこにもいなくなってしまったと思うと、たまらなく寂しい。


2013年2月25日月曜日

『世界にひとつのプレイブック』──俳優という仕事は美しい


『世界にひとつのプレイブック』デヴィッド・O・ラッセル監督・脚本  
 本作の出演者4名が、アカデミー主演男女優、助演男女優賞にノミネートされている。それだけのことはある作品である。ありがちなストーリーと見えたが、実際観たら、視点がまるで違っていて、今という殺伐とした時代を人間らしく生きるための応援歌であるようにも思った。
 まず、目を見張るのは、弱冠22歳のジェニファー・ローレンスの、堂々とした未亡人の演技である。若妻ではあるだろうが、金髪を黒く染めて、30歳にも見えるような風貌で、「人生に傷つけられた」女の内面を、ダミ声のような台詞回しも自在に、デニーロさえ食ってしまっているような演技で見せつける。対するブラッドリー・クーパーも、精神的にまいってしまった男をこれまた繊細に演じて、彼の物語ながら、ジェニファーの演技の受けにまわっている。「名優」デニーロも、いいオトッツァンを楽しそうに演じているし、母親役のウィーバーも、ほんわか温かなムードは、今の時代には見られないキャラクターである。
 本作を見ると、ほんとうに俳優という仕事は美しいなと思うが、集中力を欠き、技術としての演技も、脚本を読む力もない日本の俳優にはあてはまらない。
 アカデミー主演女優賞は、『ゼロ・ダーク・シティ』のジェシカ・チャスティンもよかったが、ジェニファー・ローレンスに行くような気がする。なぜなら彼女は傑出しているからだ。ジェニファーの姉役のジュリア・スタイルズも、かつては、ジェニファーのような役どころでもあったが、このふたりは前から似ているなと思っていたので、姉妹役ははまっている。それに、スタイルズの包容力がなんともいい感じでホッとする。そう、この映画は、ひさびさ、すみずみまでホッとし、さわやかな気持ちになれる映画だ。

『ゼロ・ダーク・サーティー』──女の一念岩をも通す


『ゼロ・ダーク・サーティー』キャスリン・ビグロー監督+マーク・ポール脚本+グリーグ・フレイザー撮影監督

 CIAのウサマ・ビン・ラーディンの追跡と発見、殺害までを描いた映画だが、実際に経過した年月は10年。映画では、そこを2年間のドラマとして描いている。素朴な観客の中には、本作を、ドキュメンタリー的(まったく違った形式にもかかわらず)にとってしまい、拷問がどうの、イスラム社会の人々に対する態度がどうの、アメリカという国の考え方がどうのと言及する。しかし、私は本作で、フィクションというものの構成の仕方を学んだ。実際の情報をフィクションとして組み立てていく脚本がすばらしい。そして、女性CIAアナリスト役の、ジェシカ・チャスティンの演技も、彼女あってこその本作だと思えてくる。
 アカデミー主演女優賞にノミネートされているが、『世界にひとつのプレイブック』を見る前は、ジェシカが取るかもと思ったが、ここはやはり、ジェニファー・ローレンスの迫力に譲らざるを得ないかもしれない。
 本作のポイントは、9.11の主犯とアメリカが考えるウサマを仕留めたことではなく、このような世の中で、そのような仕事に就き、全力で戦わざるを得なかった、ひとりの若い女の姿である。最後に彼女が流す涙は、成功の喜びでもなく、死んだ同僚たちへの同情でもなく、「できればこんな世の中で、こんな仕事などしたくなかった」と言っているように思えてならない。ジェシカ・チャスティンは青白く繊細な風貌で、「女の執念岩をも通す」を体現して見せる。
 拷問シーン(「合法」と言われた「水責め」や、箱詰めなどで、よくあるマフィア映画ほど、サディスティックに描かれているわけではない。それゆえ、リアリティはある)を監視カメラのくぐもった映像で見せたり、夜間のネイビーシールズの、ウサマの隠れ家への侵入シーン(私は「吉良邸討ち入り」を思い出してしまったが(笑))の赤外線で映し出されたようなフレイザーの撮影は、リアルな質感を感じさせる。
 主人公の上司役に、「カメレオン俳優」のひとり、マーク・ストロングが扮しているが、こういうスーツ姿のオフィスワーク役は、印象的な眼差しを持つ彼のセクシーさが滲み出て、なかなかよい。

2013年2月21日木曜日

『ウー・ウェンの中国調味料&スパイスのおいしい使い方』──気分がアガる


『ウー・ウェンの中国調味料&スパイスのおいしい使い方』(ウー・ウェン著、高橋書店、2011年5月刊)

 料理書は常に「更新」している。料理研究家の、その素材に対する、切り口にこそ、昨今の料理書の意味はある。かつての拙レビューには、「浜内千波の時代」と賞賛したものもあるが、もはや、彼女の時代は終わった(笑)。売れている料理研究家は、ブランドものの食器も高級な材料も買える。それが著書で悪目立ちしてしまったら、経済難に苦しむ読者は引く。浜内の料理本はそんな感じだ。
 いま、私がベーシック(レシピや考え方、味が安定していて、日本の家庭料理を支える)と考える料理研究家は、栗原はるみ、有元葉子、土井善晴で、これに、ウーウェンを加えたい。ウーウェンは中国人であるが、上3人の料理研究家のように、和、洋、中、偏見なく研究している。
 これらベーシックな料理研究家の本を出している版元も、彼らの料理を生かすよう、美しく造本している。
 本書は、そのなかでもとりわけ美しい本である。表紙の写真もさることながら、なかの料理の写真も配置も美しい。シンプルな材料を、エキゾチックな中国調味料とスパイス類で、どこか気分がアガるものに変えている。今ではかなりの家庭にありそうな豆板醤、オイスターソースから、買ってはみたものの、棚や冷蔵庫で眠っている、トウチ、花椒(ホワジャオ)、クミン(中東のスパイスではなかったの?)、おまけに、ミカンの皮を干した(ほんとうに普通のミカンを干すだけでできるんです!)……などなどが、見慣れた野菜とともに、新鮮な料理として蘇る。要を得た短い説明を読むたびに、毎度のことながら、ほんとうに、ウーウェンさんという人は、頭のよい人だと思う。


2013年2月18日月曜日

『日本人のための世界史入門』──だから日本(人)は舐められる(笑)


小谷野敦著『日本人のための世界史入門』(新潮新書)

 興味本位で本書をぺらぺらやって、そのあまりの内容のなさに呆れたので、あえてレビューを書くことにした。「日本人のための」と銘打ちながら、本書はいったい、どういう人々を読者として想定しているのだろうか? 思いつくだけでも以下のような人々が想像される。
 1、著者よりバカ 2、高校レベルの知識もなく、世界史というとなんとなく難しそうで引いてしまっている人、しかし、できれば、いっきに世界史を理解したい人々 ……

 本書の著者の態度はだいたい、1のような人々を当て込んでいるのはわかる。しかし、もし、2のような人々がいるなら、本書を読んでも、世界史はいっきにわからない。なぜなら、本書の著者に世界史がつかめてないようであるから。だいたい、世界史をいっきにわかろうという態度がバカである。

 著者は、キリスト教が「よくわからない」そうである。キリスト教はユダヤ教の一派として始まり、その知識なくして、あらゆる欧米の哲学、文学を語ることは不可能である。よって、本書は、まがい物であることを自ら告白しているようなものである。だいたいこんな本を出す方も出す方である。こういう、芸能週刊誌のような切り口しか持てない著者の文章を、「世界史を教える」本として、堂々と売り出している国の文化程度は知れたものである。
 同じ新潮新書でも、元朝鮮労働党幹部が匿名で書いた、呉小元『ハダカの北朝鮮』の方がはるかにためになる。そして、あの「たもやん」(田母神俊雄)の『だから日本は舐められる』(双葉新書)の方がはるかにマシである。


2013年2月12日火曜日

ヒヤシンス娘

 青山フラワーマーケットで仕入れた春の花を紹介します。左、ヒヤシンスの「デルトブルー」(1本365円)、右、ガーベラの「ホワイトクッキー」(1本105円)。1本ずつでもすてきでしょ? 両方ともオランダ産。オランダには、大震災のとき、こちらに来てもいいよと言ってくれた、心やさしき、Yvonneっていう友だちがいます。ヒヤシンスは、T.S.エリオットの『荒れ地』、「ヒヤシンス娘」を思い出します。


行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...