2010年9月29日水曜日

『十三人の刺客』──世界に出せる脱構築時代劇エンターテインメント

『十三人の刺客』監督三池崇史


 紋切り型の時代劇から完全に脱し、あらたな時代劇エンターテインメント像を作り上げている。しかし、ディテールや台詞回しはむしろていねいかつ地味に積み重ねられている。

 日本映画は、『宇宙戦艦ヤマト』のような、ハリウッドSFものまねをつくっても、ちゃちさが目立つだけでとうてい及ばない。本作は、日本映画が世界に出て行くひとつの道を示したものと言える。

 『13人の刺客』というタイトルから、赤穂浪士の『47人の刺客』を思い出したが、それとはまったくべつの筋立て設定であった。こちらの方がほんとうの「刺客」であろう。江戸時代といえど、ただ漠然と描き出すのではなく、江戸末期、明治に近い時代のできごととして、まさに「ラストサムライ」たちの生き様を、リアルに描いたものと言える。

 選ばれる刺客たちの、キャスティングもよい。若い、あまり顔の知られてない俳優が並び、その若さが、エネルギーとはかなさを、江戸という閉じられた時代の闇にきらめかす。主役の役所広司の人柄を感じさせるサムライもいいし、その甥の山田孝之のマイケル・ジャクソン(笑)を思わせる風貌も抜きんでている。名もない山の民でありながら、重要な役どころとなる伊勢谷友介の伸びやかな体全体を使ったパフォーマンスも魅惑的だ。また、平幹次郎、松本幸四郎、松方弘樹など、かつての時代劇のスターたちが、脇を支えるのも、本作を安定させる。

 そしてそれだけの「正義の味方」にたったひとりで対する「悪役」、稲垣吾郎は大したものだ。役が役だけに、ファンは減るかもしれないが(笑)、そういうリスクを取るのは、役者として大成への道である。

 もうひとつ、本作がただのエンターテインメントに終わらず芸術作品となり得ているのは、物語を少しズラしてみせる、脱構築である。それゆえ、「肝心なところで映画を壊している」などという、俗なドラマにとらわれた観客の感想がまま聞かれる。脱構築とは、覚めた目で物語をとらえることでもある。三池崇史は、どうもそういうものを心得た監督と見た。





2010年9月27日月曜日

私の政治観

 政治や経済問題は、時代劇とはちがうので、勧善懲悪ではない。しかし、ある種の論者の態度は、時代劇の正義の味方のそれである。そんななかで、いわゆる市井の人間は、なにを信じたらいいのか。政治、経済の基礎の「リテラシー」を養ったうえで、自分の考えで判断するしかない。たとえば、日本の政権が自民党から民主党に変わったが、それは、自民党政権が経済的に行き詰まった結果というより、国民自身が「変化」を求めた結果に過ぎないと書いていた野口悠紀雄氏の意見に頷ける。
自民党にも「リベラルな」若手議員はいるが、もういわゆる「土建屋政治」にはうんざりである。民主党内でも、それをひきずっているのが、小沢派と思われる。

今度の尖閣諸島事件を巡っての中国側に対応する意見として、鳩山由起夫前首相が、「私なら、中国側とうまく話し合うことができた」と言っているそうだが、もしそう思うなら、他人事のように言わずに、そういう地位になくても、なんとか手を貸すべきではないのか? だいたい、鳩山由起夫氏は、小沢一郎が嫌いだったはずである(笑)。しかし、今は、小沢側に寄り添っている。それで思い出すのは、「政敵の」(?)弟、鳩山邦夫氏が、「兄は態度をころころ変える」と、書籍だったか、週刊誌だかで話していたことを思い出す。そのときは、鳩山由紀夫支持だったので、弟のひがみぐらいにしか思っていなかったが、今になると、その言葉をしばしば思い出す。

もともと、尖閣諸島が中国に属していたという、歴史的事実は一度もないらしい。中国が自国の領土であると主張している根拠は、尖閣諸島が台湾のものである→台湾は自国に一地方→ゆえに、自国のもの、という論理らしい。それも、その付近の海底に、天然資源が埋蔵されていることがわかる以前は、なんら主張はしていなかったらしい。こういう動きは、クェートへ侵攻した、サダム・フセイン政権当時のイラクを思わせる。

そういうむちゃくちゃな論理を振り回す政権(国とは言うまい。何億もの国民を、すべて「悪」として、憎むのはよくない)に対しては、やはり、岡田克也幹事長の、「中国は大きく自らの利益を損なった。世界に中国がどういう国かを発信した」という態度は正しいと思う。

それにしても、Twitterの、9月14日午前10付けの。ケータイから(笑)の「つぶやき」で、鳩山由紀夫氏が、「代表選挙の応援団を見ていると、官僚出身、元アナウンサー、政経塾出身、弁護士は菅総理側が多いように思う。一方の小沢元幹事長側には一匹狼的な議員が多い。偶然だろうか。私には覚悟の差のような気がしてならない」などと、書いていたが、これは、論理的にどうなんでしょう? と思わざるを得ない。「官僚出身や元アナウンサーや政経塾出身や弁護士」であることと、「一匹狼であること」は、矛盾しないし、「覚悟がない」ということにもならない。こういうのは、ただのイメージである。これに反論するには、「 『スポーツ選手や議員の経験が初めての女性たち』なら、山積みする難題を裁いていけるのでしょうか?」である。いかにもキャリアが悪いように言ってるが、そのキャリアを積み上げるには、それなりの努力もいったのではないでしょうか。

いわゆる「小沢派」の新人議員の多くは、小沢氏の言うなりになりそうな人々である。小沢一郎に期待している人々は、強い政治家、腹芸が得意な政治家、ダーティー・ヒーローが、なにか一発で胸の空くように、難題(経済も政治も)を解決してくれると信じているのである。絶対王政ではあるまいに、ひとりの指導者でなんとかできる世の中ではない。だいたい、政治家はサービス業ではない。なにかしてくれるのを待つのではなく、自らもなにができるか、考えるべきだろう。私は、草の根運動から出た人が首相なる世の中は、黒人が大統領になる世の中と同じように、やっと実現されたと思っている。

管伸子夫人ではないが、「恐竜の時代は終わらせてもらいたい」。

2010年9月21日火曜日

『恋』──日本の長編にありがちな枚数稼ぎの「情痴小説」

 『恋』小池真理子(新潮文庫)
 
 
 かなりの長さで、物語が破綻なく書かれてはある。一見「力作」である。しかし、これを外国語、たとえば、英語やフランス語に翻訳し、世界に出せるか? 出したら、たんなる三文小説だろう。日本の長編小説にありがちなパターンであるが、無駄な描写でいたずらに枚数を稼いでいる感がある。本作は400字詰め原稿用紙に換算して1000枚ほどだと思うが、「情報量」は100枚程度のものである。 

 どの登場人物も、「物語」を語るための「道具」でしかなく、実際に生きている感じがしないし、共感もできない。本作をミステリーとして引っ張っていくサスペンス=「秘密」は、最後まで意味ありげなのであるが、その「秘密」は意外でもなんでもなく、誰でも予想のつく凡庸なものである。 

 70年時代とその時代を生きた人々を題材にしたということであれば、藤原伊織の『テロリストのパラソル』の方が、文学としてリアリティがある。 
  
 「浅間山荘事件」が時代背景としてあり、まるで関係あるかのように書き始められているが、あの「歴史的な事件」について、たとえフィクションでもなにか作者なりの見方があるのか、そういう興味で読み進んでいったが、結局、それは、「アクセサリー」にすぎなかった。作者がその世代に属し、それに拘りたいのだろうが、実際には、そこまで踏み込んでいない。ただ、これを情痴小説と見れば、それなりの鑑賞には耐えうる。 


2010年9月14日火曜日

『悪人』──地獄のない地獄

樹木希林を除いて、本作の登場人物は、どれも抽象的である。いかにも「現代日本の地方に生きる若者の孤独」を描いたかのようでありながら、それは、ニュースや、それこそ、ネットで「見たかのような」図である。それぞれの俳優が、いかに、悲しみを表現しようと、それはひとつの「典型」にすぎなくて、リアルなものはなにもない。
というのも、リアルとは、その人にしか持ち得ない、その人の肉体でしか説明できないなにかであるからだ。
ここにあるのは、ただの風俗である。それも、風俗という名の抽象でしかない。それにかろうじて実態を与えているのは、俳優、樹木希林の存在である。この人は、いかなる抽象をも拒む肉体を持っている。それは俳優としての資質である。この人のように、まず抽象を拒むことから作品というのは始まるのである。
深津絵里が、カナダの映画祭で賞をとったそうであるが、やはり抽象であることに変わりはない(むしろ賞は、樹木希林に与えられるべきであったであろう)。こういう実態のない人物を演じていて気持ち悪くならないのだろうか?
だいたいが、原作の吉田修一自体が、そういう「典型としての風俗」を描く作家である。ここには、車谷長吉が達したような「地獄」は見あたらず、どんな事件が起きても人は心を動かされない。

2010年9月10日金曜日

『脳がヨロコブ生き方』──好奇心こそ宝

『脳がヨロコブ生き方』(茂木健一郎著 ヒカルランド 2010年8月刊) 

 自己啓発系の著書が多いように思われる茂木健一郎であるが、本書は題名はその流れながら、その系統の本ではない(出版社は、氏の「デビュー作」を出してくれた編集者が独立して作った会社だそうで、「恩返し本」のようである。そのためか、氏の「知名度の高い本」の題名を利用して売ろうとしているのだろうが、それはむしろ逆効果になっているかもしれない)。これは、氏のブログをまとめた本であるが、ありがちな、私生活、それも、一般の読者には縁のないような、「セレブな日々」を垂れ流しに綴ったものでもない。

 いわば、日々の思考のエキスのようなものが、加工を加えず自然のままに綴られている。それゆえ、なにかのテーマのもと、全体を構築していくような文章ではない。意外にも詩的な言葉が美しく流れていく。

 そのなかに、われわれがインスパイアされるものが多々ある。そこには氏の、フェアな姿勢が自ずと現れている。体系的な哲学書を読むような充実感はないが、頭を働かせるとっかかりにはなる。氏のルーティンに添うことによって、われわれ読書は、おのれのルーティンを計画できるのではないか。

 文章には、人格のすべてが表れる。本書から窺われるのは、氏の謙虚で良心的な人柄であり、好奇心こそ宝という思想のベースである。

 1日1日のブログを収録したものではあるが、日付はない。それだけでも、どこか爽やかだ。



2010年9月7日火曜日

『読んでいない本について堂々と語る方法』──しかし本書だけは読了してしまう(苦笑)魅惑の書

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著 大浦康介訳 筑摩書房 2008年刊) 


 題名を見て、正直なハナシ、「そんな方法があれば……」と、「ワラにもすがる思いで」(笑)、本書を手に取った人も多いのではないか。なにを隠そう、私もその1人である。本の体裁を見ればわかるとおり、本書は、「実用書」ではない。れっきとしたテクスト論書である(ポストモダン系)。それも、著者の専門である、精神分析理論をもとに「論じている」。


 しかし考えてみれば、精神分析は、読書体験を論じるのに、かっこうの手法である。本書の読者は、あの、きわめてあいまいな、読書という体験を、すっきりと分析してもらえ、しかも、「そうか、これからも、しゃかりきになって読む必要はないんだ」と元気づけられる。そのうえ、矛盾するが、どんな難解な本にも挑戦してみようという勇気も与えられる。

 「読まない本について堂々と語っている」人たちの例が、巷のハウ・ツー本のような、そのへんのオジサン、オバサンではない。ポール・ヴァレリーだったり、モンテーニュだったりする。そうか、あの偉人も、そうであったか……。

 

 世のビジネス書は、速読だの多読だの、ごくろうなことである。これは、ひとえに、「読書体験」たるものの、認識が浅いからである。


 重箱型学者を嗤っているかのような胸のすくような本を書くのは、さすが、フランス人である。しかし、翻訳書であるかぎりは、どんなにすばらしい内容も、訳文ひとつでつまらなくもなる。本書がおもしろいのは、当然ながら、訳がいいからである。


 頭がよくなった(実際なっていると思う)ような気分になれて、すいすい読み進めてしまえて、これからは読んでない本についても堂々と語れる……こんな本を「誰にも教えたくない」(笑)と思うのは、どこかのレビュアーさんも書かれていたとおりである。バイヤール+大浦康介訳本は、ほかのも読んでみたくなる。




行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...