2011年8月6日土曜日

『バビロンの陽光』──過酷なロードムービー

『バビロンの陽光』モハメド・アルダラジー監督

 なにもない砂漠、汚れた衣類、壊れた道具や機械、荒れ果てた街……。災害ではない。内戦である。内戦が起こっていた国である。虐殺が虐殺を呼び、人々の感情は、壊れながらも生き続け増殖する。憎しみ、絶望、悲しみ……それでも人は、希望を植え付けられ、生きさせられる──。
 サダム・フセインが逮捕されたあとのイラク。何百万人もの人々が虐殺されていた。集団墓地が何百もあり、肉親を捜して、人々の絶望の旅は続く。
 クルド語しか話せない祖母と、アラビア語も話せる少年の二人も、息子であり父である身内を捜す旅に出る。そこから映画は始まり、過酷な旅をゆく。ヒッチハイクの車もバスも、どうにか動いているにすぎない。砂埃が画面から舞ってくるようである。これもひとつの生に違いない。だが、なんという生なのか。バビロンを持つイラクは、かつては夢のような国であった。それが、廃墟のようになっている。いや、廃墟という言葉はまだ美しすぎる。悲惨な光景ではあるが、本編のテーマは、「悲惨」ではない。「夢」。かつてあった夢のようなものの幻影を見せる。そして、こんな状況でも、わんぱくであった少年は、おとなの顔になっている。

2011年7月15日金曜日

『ラスト・ターゲット』──突然の純文学

『ラスト・ターゲット』アントン・コルベイン監督

 本作は、エンターテインメント+ジョージ・クルーニーのかっこよさを期待していくと、なんか違うとはぐらかされた気持ちがすると思います。
 人生に嫌気がさしている殺し屋が、イタリアの小さな町に潜伏して、銃をカスタマイズする仕事をしている。そこで、清純な(?)娼婦に出会い、もしかしたら人生が変わるかもしれないと期待を抱く……という物語が淡々と描かれる。セリフも登場人物も少ない。陽気なはずのイタリアの町もどこか陰気くさい。ジョージ・クルーニーの表情も重苦しい。印象に残るのは、銃をカスタマイズする、つまりは、改造銃を作り上げる綿密な過程と依頼人の女と交わされる「専門用語」。
 観客をスカッとさせてくれるはずのクルーニーはいったい本作に何を求めたのか? うーーーん……志が高い!としか言いようがない。寡黙な主人公の日常を追い続けてドラマにしたフランスのロベール・ブレッソンの作品をも彷彿とさせる。
 邦題はひどいタイトルである。そこから観客の誤解が起きる。現代は、『The American』。Theが問題である。その町にただひとりしかいないアメリカ人。ときどき、イタリア語を話すクルーニー。見かけより硬派な男と見た。

 「おまけ」

 たまにネットでも、いわゆる「映画評論家」という人々のレビューを読むが、こういう時代になって、その型にはまったディスクール&エクリチュールが目立って、なんかズレてしまった感がある。本作評、映画.com 芝山幹郎氏しかり。

2011年7月14日木曜日

『ほんとうの復興』──脱原発社会への手引き

 『ほんとうの復興』(池田清彦、養老孟司著、新潮社、2011年6月刊)

菅首相が「脱原発社会をめざす」ということを表明した(2011/7/13)。ドイツのメルケル首相についで、非常に評価できる発言であると思う。まず国家の首長がどのような国家を目指すか表明することは、政治の根幹である。それに対して、メディアは、すぐに、原発のある自治体、具体的には、各町、村長らに、意見をうかがい、それを載せている。「賛否の声」などと言いながら、いちばんヒステリックな否定の声を見出しにとり、否定的意見ばかりを載せている。
果たしてこれらの、町、村長が、原発問題をどれほど深く理解し、行動しているのか。自分の町、村に、原発の建設を許したということは、いわゆる「賛成派」で、かつては、電力会社のいいなりになっていて、今頃、どちらについたらいいかわからず、「おらがの利益」を念頭に、玉虫色になっているのではないか。

本書は、養老孟司との共著ながら、基本的には脱原発なのだろうけれど、文章がしどろもどろで理解しにくい養老氏の部分はさておき、池田清彦の、「エネルギーは未来を決める」という論文は、菅首相の行き方を論理的に、代替エネルギーの可能性も、具体的なデータを交えながら、説明されている。福島第一原発で最も深刻な事実は、「地域社会という国民の生活根幹を破壊した」ということである。氏は言う。「人一人の命を救うために、社会システムが崩壊したらそれこそ大変である。個々の人の命は社会にとってはかけがえのあるものだ。しかし、崩壊した社会システムを元に戻すことはできない」。
「人が生きるということは単に命をつないでいることとは違う。生活基盤と地域社会の絆をすべて奪われ、復興のあてもない人々に、ただちに健康に被害がないし、誰も死ななかったのだから、原発は安全だ、などとどの面さげて言えるのか」

「原子力産業は、原発を止めたら国民生活は破壊するという脅しと、原発はきちんと動かせば最も安上がりな発電装置だという屁理屈で、原発の廃止を抵抗するだろう。計画停電などというのも、原発がなくなったら大変だ、という脅しの一種かもしれない」

そして、エネルギー利用の、短期、中期、長期的な具体案を提出している。決して単純な問題ではないが、ひとつひとつをじっくり検討し、冷静に対処していかなければならない。本書を読めば、菅首相が一見「迷走」と言われる態度となって表れている行動も理解できることと思う。

2011年7月4日月曜日

『2011年版 間違いだらけのクルマ選び』──震災後の車選び

 『2011年版 間違いだらけのクルマ選び』徳大寺有恒+島下泰久著(草思社 2011年6月刊)

 私は免許も、当然ながら、車も持ってない。しかし、車には関心があるので、徳大寺氏の本は愛読してきた。『間違いだらけ』シリーズも、前回で最後だと宣言されていたと思うが、今回本書の「復活」が新聞の宣伝に出ていて即購入して即読んだ。

 今度も読みごたえがあった。徳大寺氏は、文章がいいし、車、ひいては車産業に対する考え方もいい。今回、島下泰久氏を共著者に抜擢したのは、一部レビュアーから、徳大寺の本ではないような不満があがっていたが、本書をよく読めば納得がいく。「暮らしの手帖」社ではないが、本書のレビューはすべて、レビューする車をレビュアーが試乗してレビューしている。あたりまえといえばあたりまえだが、つまり、「実際使ってみて……」ということだ。こういうエネルギーのいる仕事を、70歳すぎた徳大寺氏が一人でこなすは大変だし、責任を持とうとすればいっそうできないはずである。そこで、氏の考え方と近く、また誠実な仕事ぶりが認められた、いわば、「後継者」のような島下氏が抜擢されたというわけだ。従って、それぞれの車のレビューは島下氏が行っている。

 しかし、私も徳大寺の文章が読みたいので、最初の「総評」とか、コラムなどを探して読んだ。本書で関心したのは、「震災後の車選び」という観点に立っていることである。それはいかなることかといえば、災害時に車はどう役立つか、そして、産業としての車はどうあるべきか。そういう考え方で車を点検しているところがすばらしい。

 なかで驚いたのは、日産のマーチはなにから何までタイで作り輸入車として販売しているということである。このようにして日本車は劣化のスパイラルに入っていかないともかぎらない。これではいけないと、本書が出たのだと思う。

 そして、ほしくなったのは、コンパクトカーなのに、高級車並の質とメカニズム、セキュリティを持った、フォルクスワーゲン社のポロである。

 レビュアーのなかに、本書(1400円)が高いという方がいらっしゃったが、本の値段がどのようにつけられるか、あまりご存じないようである。本書は、薄利多売を考えていない、版元は、どちらかといえば、硬い内容の本を出している草思社である。この出版社は、大出版社ではない。だから、当然値段は、総費用を部数で割った数字を元にしていて、多少割高にならざるを得ない。企業の宣伝のモーター雑誌とは違うのである。

2011年2月6日日曜日

2011年1月9日日曜日

学識とはイヤミである? ──蓮實重彥『随想』

蓮實重彥『随想』(新潮社 2010年8月刊)

「高度消費社会」、あるいは、「高度消費社会」の荒波の上に、「とりあえず」は浮上して、まっとうな啓蒙論客を気取って、イタリアンなどを編集者と食べて、ああうまかった、とTwitterで書いて、それで韜晦したかのように悦にいっているかに見える「ブログの書き手」への反論も、周到なリファランスを援用しつつ、さりげなく、してみせる、蓮實節は、健在である。 

本書を読めば、「脳ってなに?」「勉強ってなに?」「生きるってなに?」という疑問がめきめき頭をもたげ、「高度消費社会を勝ち抜く」ために、世間に溢れている指南書も、クズに思える。 

かなりイヤミでは、ある。しかし、もともと、イヤミとは、学識のことである。世界のまっとうな学者の論考は、こうした細かいリファランスに満ちている。マルクス『資本論』しかり。 

まあ、「ブログの書き手」としか、認識されていないのではあるが、こうして反論を何ページにもわたってしてもらえただけでもよかったですね、内田樹サン、てとこでしょうか(笑)。

さらにディープに……こちゃへ↓

「評論的なるものをめぐって」を見てね↓




2010年12月22日水曜日

『脳が変わる考え方―もっと自由に生きる54のヒント 』──リファレンスがよい

『脳が変わる考え方もっと自由に生きる54のヒント 』茂木健一郎 ( PHPエディターズグループ 201012月刊)

 もう茂木健一郎の「脳のなんとか……」にも辟易の読者もいるかもしれない。茂木氏に好意的な評価をしている私なども、そのあたりの感覚は否めない。しかし、店頭に新著が並べば、なんとなく手に取ってしまう。目次をぱらぱらとみて、ひとつかふたつ……いや、3つぐらい、「ん?」と思うものがあれば、買ってしまう。

 本書は、講演記録を編集者がまとめ、著者が加筆を経たものである。まあ、忙しい著述家にはありがちなパターンではある。しかし、それゆえに、というか、じかに書いたものより、氏の主張が凝縮されている。有効情報の割合が高い。それに、やはり、行間から滲み出る、著者の人柄のよさにどこか心が暖かくなる。すなわち、自分の持てるものは、あますところなく公開しようという態度である。

 英語、政治、科学、経済……著者はよく勉強し、し続けている。普通、そういうものの、リファレンスは、ネタもととして、あまり公開したくないものだが、著者は惜しみなく公開している。今、日本で、最も良心的な著者と言える。

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...