2012年12月9日日曜日

カラマーゾフの兄弟1: 1 (光文社古典新訳文庫)──驚きの日本語


カラマーゾフの兄弟1: 1 (光文社古典新訳文庫) [Kindle]
ドストエフスキー (), 亀山 郁夫 (翻訳) 

新潮社の『ドスエフスキー全集』を持っているので、原卓也訳で読んでいたのだが、寝るとき、寝室を暗くして、Kindle Whitepaperで、「続き」が読みたかったので、本書を購入してみた。訳語の細かな部分には拘らず、だいたいの物語を追えればいいと思っていたが、どうも、本書の訳で読むと、ドストエフスキーの深みがなく、違ったものを読んでいるような気持ちになった。大筋は、たぶん、原訳を参考にしていると思われる。しかし、日本語に疑問を持つような表現が多く、一部マスコミでは評判になったように記憶しているが、はっきりいって、私にはどこがいいかわからない。やはり、ちゃんとした本で読みたいと思う。

 とりあえず「1」だけしか買わなかったのは正解であった(笑)。

2012年12月8日土曜日

マンボ!ばかん♪


 雪のピレネー山脈を越え、飛行機はボローニャ空港に着いた。2列、2列の席が並ぶ機内で出されたのは、パンと飲み物。しかし、このパンがうまいのだ。やはり小麦が違うから、まずくなりようがないのだな。早速タクシーに乗り込んで、ホテル「アストリア」まで。20分もかかってなかったので、日本円にして、1000円台だったと思う。車種はメルセデスのSWで、どうもイタリアでは、ワゴン車ありで、思い思いの車をタクシーにしているようである。すべて「公式」のタクシーである。そして、ボローニャでは、やはり「大学の町」だけあって、人々は愛想がないながらも誠実で、タクシーの運転手しかり。帰りなど、数百円ぶんのチップすら受け取らず、ちゃんとおつりととも返してくれた運転手もいた。
 ホテルはBooking.comでバーゲンをしていた(笑)、三つ星だったかな〜? まあ、ごく普通(?)のホテルだったが、荷物を持って入っていって、「ボンジョルノ」と言ったのに、フロントのオッサンは顔すらあげない。しばらくねばっていると、のろのろ受け付けを始めた。なんつー無愛想な!とのっけから頭に来たが、部屋に入ってしばらくして、wifiや、行き先のことなど聞きにいくと親切に教えてくれ、笑顔も添えられて、「いいひとになっていた」(笑)。どうもボローニャ気質っていうのはそういうものらしい。ウィンクぱちぱちのフィレンツェとは全然違っている。



ホテル「アストリア」前にて。



まず、モランディ美術館を探して出発して、よくワカンナイけど、なんか歴史的記念物みたいなので撮影した。この建物の向こう側のカフェのような店だったかで、モランディ美術館を聞こうとすると、美少年が出てきて、「それは、マンボだよ!」という。なに? マンボって?!(いや〜、実は出発前にwebで調べていたから、だいたいわかっていたんですけどね……) マンボとは、ここ、ボローニャの、キーワードとなる。



「ボローニャ名物」、ポルティコ。通りの歩道部分に屋根がある。向かって左側はすでに道路。パリのパサージュみたいなものかなと想像していたが、ちょっと違った。パサージュは商店の集まった場所がアーケードにようになっているが、ポルティコは単なる歩道に屋根で、その昔、屋根をつければ、公共の場所となり、税金がかからなかったとか……(NHKの『まいにちイタリア語』で先生が言っていた)。


2012年12月3日月曜日

しゃべった、歩いた、疲れた@イタリア旅行


 ボローニャ行き帰り二泊。鉄道でフィレンツェまで。超高速で30分。フィレンツェ二泊の、弾丸旅行に行ってきた。四泊六日で、まあ、しゃべったわ、しゃべったわ、イタリア語を! そして、目的の場所を探して一日20000歩近く、そして……疲れた。乗り換え地点のフランスは、シャルルドゴール空港も、やっとのことで、帰りのJAL機に、乗り込んで、客室乗務員のお姉様がたの満面の笑顔で「お帰りなさいませ」に迎えられた時には、『暮らしの手帖』2012年12-2013年1月号の、ドナルド・キーンのエッセイではないが、「日本人てなんてやさしくて親切ぅ〜」、日本人に生まれよかったぁ〜(海外旅行たび思うのだが(笑))と、心から安堵するも、「わかりにくいんだよ、乗り換えが!(日本人の従業員が全然おらず、日本語はほぼ通じない。しかも、乗り換えターミナルは、降りた地点の反対の端(その距離は、ひとつの町といってもいいほどの距離)」と、JALへのクレームも爆発! でも、よかった〜……と、安倍晋三ではないが「美しい国日本」……と、思わないでもないが、まあ、「世界一安全」(治安が)は、キーンさんのおっしゃるように確かでしょう。
さあ、どの「お写真」から行きませう? 歩くのに夢中で、あんまり撮らへんかったけど。

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 すでに暗いけど、まだ午後4時頃のはずのパラティナ美術館のあるピッティ宮。
ベッキオ橋を渡ったところにある。列車でフィレンツェに着いて、ホテルにチェックインして、それほど時間が経ってない。ホテルは、和辻哲郎も泊まったホテルもこのあたりかとおぼしき、アルノ川沿いのホテル。なので、ここへ、徒歩ですぐ。

2012年10月22日月曜日

『別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判』──著者自身がグロテスク



『別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判』(佐野眞一著、講談社刊 2012年5月刊)

『東電OL殺人事件』はそれなりに読ませたし、被害者の女性の男社会で差別される悲しみも描かれていたように思うが、本書は、その「出自」をテッテイ的に洗う手法はさらに凄みも増し、なんでこんな事件をここまで? というほどである。『東電OL』には、今の「東電問題」に繋がるような根深さも見えたが、本書のテーマはそれほどの社会性も見られない。ありふれた(?)猟奇殺人事件である。それなのに、著者は、それを執拗に意味のある何かと結びつけようとして、気味が悪い。もしかしたら、ボケてしまったのか。
 そして、今度は、「橋下徹」の記事である。今後、「週刊朝日」での連載が続けられるようなら、本書よりさらにグロテスクな本になるだろう。どうせなら、この手法では、「尼崎コンクリート詰め殺人事件」を扱ってほしい。といっても、この事件は、テッテイした「出自」調査は意味をなさず、テッテイした心理分析が待たれるだろう。それは、佐野眞一では荷が勝ちすぎているだろう。
 ま、本書は、ジャーナリストとノンフィクション作家の違い、その深い乖離が見られる貴重本であるとは言える。しかし、読後の空虚感はほかのまっとうな書籍で埋めるしかないだろう。



2012年10月11日木曜日

『小説講座 売れる作家の全技術 ──デビューだけで満足してはいけない』──一応、レビューしたんですけど……(笑)


『小説講座 売れる作家の全技術── デビューだけで満足してはいけない』(大沢在昌著、角川書店、20128月刊)

 私は某文芸誌よりデビューし、4編作品を発表し、原稿料も、合計200万円近く稼がせていただきましたが、その後、本書のような本が発売されれば、手にとってみる体たらくとなってから久しいです(笑)。従って、本書のような作家指南書の研究家でもありますが、その私から見て、本書は、Amazonインタビューからも伝わってくるように、著者の誠実さが滲み出た本ではないかと思います。従って、小説作法としてよりも、日本の出版業界で「小説家」として生活していくという実態の内幕はかなり出ていると思います。
 ただ考えてみればわかる通り、「売れる作家の全技術」というタイトルには、矛盾があります。「売れる作家の全技術」がわかれば、著者の大沢在昌氏をはじめ、本書を読んだというプロの作家たちも、まったく苦労しないわけです。その「全技術」を行使すれば、「売れる」わけですから。
 エンターテインメント、純文学などと「明確に」分けているのは、日本だけで、世界的に見れば、ただのフィクションだけがあるわけです。日本ではそれほど知られていない、C・E・ベックホファー・ロバーツだけでなく、「探偵小説は”文学作品”でなければならない」と考えている作家は世界にはあまたおり、またそうでなければ、「作家であり続ける」ことはできないのです。従って、日本で作家を志すなら、一にも二にも、日本語修行に尽きると思います。そして、それでは、大沢在昌の日本語がどうかといえば、舌を巻くほどとは思えない。
 また、氏は、Amazonのインタビューで、多くの同業者たちに読んでいると言われたのは意外であるようなことを言われているが、これは外国ではわりあいあたりまえで、ローレンス・ブロック『ベストセラー作家入門』もかなりの同業者が参考になったと言っている。それほど、作家たちは、デビュー後も、創作に悩んでいるということだと思う。
 本書と同様な指南書として、高橋克彦『小説家』も、日本で、作家としてデビューを目指す人にはお勧めの本である。この種の本で重要なことは、著者が正直であるかどうかであって、その点、大沢氏も高橋氏も信頼がおける。

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「お写真」は、ある日の昼食。



2012年10月10日水曜日

『読書の技法』──リテラシーを磨け!


『読書の技法』(佐藤優著、東洋経済新報社、2012年7月刊)

 複雑化かつ庶民化もした現代社会では、高度な機器を使いこなしたり、高度な情報にアクセスすることも容易になったし、またそうでもしなければ、自分の望むような成功も覚束ない。たとえば、おととい(2012/10/8)、山中伸弥京大教授が、iPS細胞の作製によって、ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まったが、これだって、生物の基礎がなければ、いくら新聞に解説が書いてあっても、どういうことなのか、さっぱりわからない。関係ない分野だと思っているわけにはいかない。現代は、最低限のリテラシー(ものごとを理解できる能力)がなければ、政治に対する意志を表明することすらできない。テレビで、だれそれが言っていたから、と、真偽のほども疑わしいもののいいなりになるしかない。
 世に勉強本は溢れているが、ちょっと前は、資格試験突破など、すでにある社会の枠のなかで成功するためにはどうするかの、指南本だった。しかも、その勉強内容も、本書ほど、具体的かつ良心的でもなかった。なるほど、本書の著者、佐藤優は、口調も風貌もアクが強く、とっつきにくいし、嗜好の偏りもあるが、大変まっとうである。おそらく、氏のようなやり方に従って勉強(それは、すなわち、「読書」である)し続けることが、「舐められない日本人」になる道でもあるように思われる。

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「お写真」は、10/8夜、街でもらった読売号外を、スタバで撮影。


2012年10月6日土曜日

2012年9月18日火曜日

『鍵泥棒のメソッド』──恥ずかしながら、内田けんじ初体験!!


『鍵泥棒のメソッド』内田けんじ監督、脚本 

 すみません、内田けんじってシネアストを全然知りませんでした。なんか外国製の映画ばっか観て、悦に入ってました。たまに日本製でもおもしろいものはあるのは知っていても、せいぜい、是枝監督程度でした。しかし、本作は、予告編でただならなさを感じて、観ましたら、びっくりしました。脚本も演出も、世界的レベルでした。そして、内田監督の経歴を知るや、なっとく~でした。
 まず、内田自身による脚本がいい。センスもいいし、テーマもいいし、構成も憎い。キャスティングもすばらしい。広末涼子ってひとは、どこか誤解され、嫌われることも多いみたいだけど、しかし、常に不動の人気を保っている不思議。その秘密がわかったようでした。この人はほんとうは、すごく頭がいい人なのではないかと思った。そういうところが完全に生きている。そして、人生。とくにレンアイ。まさに、本作にあるような、なにかの音(!)、それは車のセイフティーなんとかのクィーン、クィーン、クィーンって音とほとんど重なっている。
 そして、香川照之。これまで知性を隠して演じるというところが得意だったけれど、これは知性丸出し。しかもほんものの知性。「東大生のきれいなノート」(笑)!。これだ。クレジットにも「ペン字指導」とあった。案外、ノートが主役かも、の、映画でなければできないシーンに瞠目。
 あ、本作は、演技論映画としても鑑賞できるメタ映画でもある。私も演劇科だったんで、いろいろ懐かしかったです。とくに「メソッド」がねえ。



2012年9月11日火曜日

『夢売るふたり』──反『Domani』映画


『夢売るふたり』西川美和監督

 30代女性を読者層に想定した『Domani』なるファッション雑誌がある。その雑誌では、「女」「妻」「母」代表と称して、30代女性の「理想の現状」をファッションのあり方とともに紹介している。また、それぞれの立場から装った、聞こえのいい職業を持った、見栄えのいい読者をファッションとともに紹介している。こういう雑誌が描き出す、幻想の30代というのは、それなりのキャリアを積み、お金もあり、異性のパートナーともうまくやって、しかも、ファッションはばっちり決めているという姿である。今の日本に、こういう雑誌が描き出す「アラサー」「アラフォー」の女性たちは存在するのか? あるいは、自分はそうだと「なりきっている」人々もいるだろう。
 しかし、人生というのは、それほど単純なものでも、ファッショナブルなものでもない。人はそれぞれの事情を抱えて生きていかなければならない。それは、人生でいちばん輝いているはずだと雑誌が吹聴する30代女性も同じである。
 本作は、気品と透明感で、凡庸な容姿を突き抜けている主演の松たか子をはじめ、さまざまな女性が出てくるが、誰ひとり、上記の雑誌が想定するような姿の女性はいない。「女子会」などという居酒屋用語でくくられる「女子」たちもいない。そこには、懸命に人生を生きようとする「第二の性」に区別される人間しかいない。その「心理」を、映像化して見せたのが本作であると、私は見た。

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「お写真」は、わん太が豊橋に帰省して、「弟」と再会した豊橋公園にて。


2012年4月28日土曜日

『少年と自転車』──加害者と被害者


 ジャン=ピエール・ダルデンヌ 、リュック・ダルデンヌ監督『少年と自転車』

 まず、ダルデンヌ兄弟監督の作風は、ドキュメンタリーよりも、さらに「リアル」を見せてくれるということである。それは、一カット一カットに、豊富な情報を提示しながら、不必要な情報はいっさい入れていないという、みごとなフレーミングにある。終盤、少年が自転車に乗って、里親の家で開かれるバーベキュー・パーティーのための石炭を買いに行くシーンにカメラは伴走する。このシーンが長い。しかしそれは、自転車を自己のアイデンティティーとしている少年の心の充実を見せている。
 親から見捨てられ、施設で暮らす少年の過酷な状況と、里親によって癒されることによって遂げる、彼の精神的な成長を、日常的なセリフを積み重ねながら、なんら説明的な言葉をシーンを用いることなく描いている。なるほど、少年は父親から捨てられるが、昨今の日本に見られる虐待よりよほどマシだと思える。そしてその父もぎりぎりの生存を息子に示す。彼は徐々に、愛というものを、正義というものを知っていく。それは、加害者と被害者の境界があいまいな世界を受け入れることである。このテーマは、ダルデンヌ兄弟の過去の作品『息子のまなざし』でも問われていた。
 今、こういう映画を観ないで、なにを観るというのか? そこには、日本映画が覆い隠して知らん顔をしている、子供というもののリアルがある。余談ではあるが、映画.comの批評氏も、ダルデンヌ兄弟は観ていないのか、ひとりよがりの精神論に終始していた。いわゆる「プロ」の批評家の意味がほとんどないのでは……?

2012年3月22日木曜日

金井美恵子と多和田葉子


ともに、世界の作家を意識する純文学作家である。で、果たして、世界に連なっているのかどうか──。

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ 』(金井美恵子著、2012年1月、新潮社刊)

 執拗に書くことの快楽(服に関する顕微鏡的な細部を延々と語るなど)を追求するれば、きっと評価してくれる人がいる。毎度、お馴染み、「金井節」がすきな人にあてた、確信犯的作である。この作家自体が確信犯的存在である。題名にも現れているように、同じ話を「何度も語る」ことが文学であるのは、べつにあらためて言われることもない。文学史上に名前を見ることのできる作家は誰もがやっている。
 恐れながら、プルーストと金井美恵子の違いは? 前者には、社会と自分との関係が書かれているが、後者は、ただオタクの世界だけ。十代からプロの作家になり、とくに大衆に迎合することなくそれで食ってきているらしいので、それなりの筆力のようなものは備わっているのでしょう。物語の語り手は男性らしいが、やはり作者自身の無意識が、無意識的に、露呈していると言わざるを得ない。

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『雪の練習生』(多和田葉子著、2011年1月、新潮社刊)

 作者はドイツに住み、ドイツ語も堪能で、ドイツ語でも小説を書き、賞も取っているというので、期待して読み始めた。もちろん、同作者のほかの作品も読んでいるが、詩的なきらめきは感じても、世界に並べる小説として息の長さ、エネルギーの持続などを期待したが、やはり、日本の、純文学の、作家の作品以外のなにものでもなかった。とくに、数行で、ある文体の思想世界の持続が崩れていく。日本的とも言えるような情緒にかすめ取られ、文章が曲がっていく。それは、ドイツ語圏の作家、ギュンター・グラスと比べれば(比べてはかわいそうなのかもしれないが)歴然としている。ギュンター・グラスにも、人間以外の語り手が登場する、『ひらめ』のような作品があるが、その息は長く、作品の構想もスケールもエネルギーも、知的意識の持続も、圧倒的なものがある。そういうものの、せめて片鱗でも期待したのは間違いだった。

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「お写真」は、近所の犬友だちの老婦人にいただいた、椿。とくに、うすピンク色は、「あけぼの」という名前だそう。



2012年3月21日水曜日

『世界認識の方法』──他人のフンドシでとった相撲?


『世界認識の方法』吉本隆明(1980年6月刊、中央公論社)

「いかにしてマルクス主義を始末するか」

 最初で最後の、吉本隆明とミッシェル・フーコーとの対談が収められた本である。本書の中で、フーコーの発言はかなりの量を閉め、内容も深いものがあるが、帯にフーコーの名前はあるものの、本書の「著者」は、吉本隆明一人である。つまりこれは、吉本隆明の本として刊行されている。
 この対談を、フーコー側の資料で見れば、書籍以外の全執筆、対談、講演等が収められた、『FOUCAULT Dits et écrits Ⅱ, 1976-1988』に、

  Méhodologie pour la connaissance du monde : comment se débarraser du marxisme
       entretien avec R.Yoshimoto, 25 avril 1978 ; trad.R.Nakamura

 とある。つまり、本対談は、1978年4月25日に行われた。
フーコー、52歳、吉本隆明、54歳である。フーコーには、日本語の翻訳された著作が多々あり、一方、吉本隆明の著作は、英語にもフランス語にも訳されていないので、本対談でフーコーが言っているように、蓮實重彥氏による、吉本氏の仕事の要約、紹介、著作リスト等によって、吉本の仕事の概要を知った。
 対談のテーマは、題名にあるように、マルクスおよび、マルクス主義をめぐる思想のある方である。それがどうして、「世界認識の方法」なのか?

★つづきは本部へ来てね↓

http://www.mars.dti.ne.jp/~rukibo


2012年2月22日水曜日

『下谷万年町物語』──ファッションとしてのオカマ


『下谷万年町物語』唐十郎作、蜷川幸雄演出@シアターコクーン 出演:宮沢りえ+藤原竜也+西島隆弘(2012/1/6(金)〜2/12(日))

 唐十郎の芝居は、状況劇場も唐組も唐組ゼミも観たが、パルコ西武劇場で30年前に上演されたという本作は、当時未見だった。脚本は、あいも変わらず、唐十郎の個人的ノスタルジーの世界と、でたらめな言葉の羅列である。それでも、それが肉化すれば、何物かに変わる。芝居の醍醐味はそんなところにある。蜷川幸雄はそのへん、プロデューサー的策士で、巷で人気の鑑賞に耐える肉体を担ぎ出してきては、アングラだの古典だのをやらせる。話題にならないワケはない。とくに今回は、宮沢りえ+藤原竜也+西島隆弘+たくさんのオカマである。人々はこぞって見物にでかけるだろう。
 確かに宮沢りえは、野田秀樹の『ロープ』の頃に比べると、格段の進歩である。声はすっかり、李礼仙である(笑)。パワーも李礼仙が乗り移ったかのようである。李礼仙を知らないジャーナリストは、すっかり感動してしまうようである。しかし、昨年上演された、唐ゼミの『万年町』の、同じ、キティ瓢田を演じた女優も、誰かがブログで、「李礼仙を超えた」と書いていたから、この役は、パワーさえあれば、誰でも魅力的に見える、お得な役なのかもしれない。私はむしろ、藤原竜也と西島隆弘の立ち姿の美しさと演技力に感心した。これからが楽しみな役者たちである。蜷川に使い古されないといいけれど(笑)。
 昭和23年の上野の男娼長屋を再現(?)した朝倉摂の装置と、洗練された吉井澄雄の照明は、さすがにBunkamura、コクーンであると思わせられる。(2012/2/9に観劇)

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「お写真」は、雪の日に遊ぶわん太。


2012年2月19日日曜日

『ドラゴンタゥーの女』──原作より知的


『ドラゴンタゥーの女』デイヴィッド・フィンチャー監督

 デイヴィッド・フィンチャー監督は非常にセンスのいい監督である。いつものことながら、音楽がすばらしく、オープニングもなにか新しいものが始まる予感に満ちたもので、この時からもう観客はドラマの世界に入っている。前作『ソーシャルネットワーク』に続いて、ヒーロー(ヒロイン)は、身体的には小柄、痩せていて、腕力のなさそうな外見である。しかし、知性と度胸を武器に、どんな屈強な相手も打ち負かしていく。その胸のすくような展開は、ミステリーの興味とともに客を物語の深みに連れて行く。
 「女性と友情を共有できる俳優」として選ばれたダニエル・クレイグの、女性にはだらしないが、仕事では厳格な倫理観を持っている姿もどこか清新である。それに北欧の冷たく澄んだ空間と、高度福祉社会が隠蔽する「女性への虐待」。フィンチャーは映画的に、新しい題材を求めて、あえて、すでに本国で2年前に映画化されている作品を映画化したように思う。
 原作のもったりとした、陰湿な文体を、フィンチャー自身の知的ですっきりしたスタイルで整理している点も注目された。
 その彼の意図に、タイトルロールのルーニー・マーラの機敏で知的な演技が完璧に答えた。

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 「お写真」は、昨日の雪夜の散歩(@福岡)を喜ぶ、わん太。



2012年2月15日水曜日

『無言歌』──ぎりぎりの生存の美しさ


『無言歌』ワン・ビン監督(2010年)

 文化大革命時代の悪が、しだいに正面切って描かれるようになっている。本作は、反右派闘争、つまり、毛沢東率いる中国共産党が、インテリや資本主義的な思想を持っている人々を、「右派」=敵として、一掃しようとした「闘争」の結果、強制収容所へ送られた人々の生、あるいは、死を、描いたものである。
 彼らは甘粛省、モンゴルとの国境に拡がる砂漠地帯へと送られ、強制労働に従事させられているのであるが、食べるものもろくにない。しだいに弱って死んでいくだけであるのであるが、それでも人間として威厳を保とうとしている人々もいる……。ここには、「最低の生活」さえない。生活などという贅沢品は存在しない。あるのは、ぎりぎりの生存である。しかし拡がる空、大地の、なんと美しいことか。過酷な美しさ。美しいといっては不謹慎なのかもしれないが、せめて、死者たちの鎮魂のために、その美しさを記録したい、そのような願いが込められた映画とみた。

2012年1月12日木曜日

『クラウド「超」仕事法』──Macユーザーから見ると「今更」の本


『クラウド「超」仕事法』(野口悠紀雄著、講談社、201111月刊)

 野口氏がご自分の常に最先端の仕事方法を試され、それを納得のいく形で太っ腹に公開されていることには敬意を払っている。
また、氏の文章展開は説得力があるので、まだ試用段階にあるものでも、氏が本を出せば、必ず買うようにしている。
しかし、今回は、やや失望した。
 クラウドは、Macユーザーなら、Mobilemeの昔から、かなり使われていたし、私自身も、途中で書いた文章をiDiscに上げ、べつの場所で開いて、ということは、数年前からしていた。さらに、iCloudになってからは、それは、たとえば、「宛名職人」といった葉書作成ソフトの住所録さえ、iPadに自然に移行されている。Kindleのアカウントさえあれば、ipadで読める。私は、iPhoneは持っていない。アプリ、使用法など、ほとんどiPadと同じだが、気軽に持ち歩けるという利点がiPhoneには、あるが、いかんせん、数々あるすぐれたアプリを使いこなすには、画面が小さすぎる。
 Widowsパソコンを使っても、DropBoxだの、Evernoteで、Cloudは可能だが、Macユーザーのシームレスさには及ばない。
氏は、Macにはよいエディタがないと書かれているが、Lightway Textといった、すばらしいエディタが存在する。これは、iPad版、iPhone版もあり、Pagesなどより、はるかに使い心地がよい。
 野口氏が賞賛してやまないGMailであるが、フリーメールであるのが気になるところである。フリーであるからには、なんの保証もない。ある日ごっそり消えていても文句は言えまい。そういう意味では、やはり複数の場所に書類等を保存するのが安心だと思う。

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「お写真」は、iPadのカード作成アプリで作成した「お年賀」です。ことちもよろちく〜。



行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...