2020年6月17日水曜日

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散文と韻文という分類がほんとうで、「行わけ」は形式ではないんです。それが証拠に、レオパルディの散文詩は、英語版では、勝手に行わけされています(笑)。ちなみに、T.S.エリオットは、ボードレールは、詩より散文の方がすぐれているとも言っている。この場合、ほんとうの散文です。

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2020年3月27日金曜日

【詩】「賢木(さかき)」

「賢木(さかき)」

きみが私のなかに見るものは小暗い森、
妖精もいなければこびともいず小鳩も小鳥も消えてしまった、
誰かが魔法をかけたのだ、
いまは時間だけが凝結しひとの声さえ霊となりはてた次元。
私のなかにきみが見るものは物語の切れ端のそのまたきれはし、
闇さえまだ明るさをもっている東西南北、
すべての棺を集めて魔女たちが嗚咽する姿、
生ほど忌まわしいものはないと光はささやく。
私のなかにきみが見るものは焔の分身、
死の床に横たわっているのは私、
おのれの夢の灰に埋もれ、青春だと思っていたものが、
永遠と差し違えて見せられる焔だ。
 神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへておれるさか木ぞ
 少女子(をとめこ)があたりと思へばさか木葉の香をなつかしみおれるさか木ぞ








2020年3月26日木曜日

【映画】『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』──三島由紀夫という「現代思想」

『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』(豊島圭介監督、2020年)

三島由紀夫は「当時」、ノーベル賞をうんぬんされる世界的作家(実際、カワバタではなく、彼が取るべきだった)であるのだが、全共闘が突然電話をかけてきて、討論をやりたいといい、快く引き受け、1000人の「敵」が、招いたにもかかわらず、会場(東大の900番教室)の入り口には、三島をゴリラに見立てた絵のある看板、そのほか、とうてい「おとな」とは思えぬ態度にもかかわらず、一人一人の言っていることを誠実に聞き、ていねいな言葉で応答している。これは、完全に三島の勝ちなのである。ただ、三島は、ほんとうに右翼だったのだろうか? 彼の言葉を聞いていると、逆説に逆説が重ねられているようにも思う。
 小林秀雄の講演をCDで聞いていて、聴講の学生が質問する。「先生は、天皇についてどう思いますか?」「なに? 天皇? きみは天皇を身近に感じる?」「いいえ」「だったら、身近に感じるものの話をしなさい。そんな自分が身近に感じられないものの話をしたってなんの意味もない」
 しかし、三島由紀夫は、学習院を首席で出た時、昭和天皇から直に金時計をもらっている。昭和天皇は彼にとっては身近な人だったに違いない。それと、観念としての天皇とか、天皇制うんぬんを付き合わせてみてもしかたがない。今では、吉田裕著『昭和天皇』によって、昭和天皇は、自分の意志をもって統治していたことが明らかにされている。そして、「そこ」へ行き着くまでは、政府=軍部という「権力」が存在していた。戦後はその「構造」が見えなくなった。それは「安保」という陰の存在のせいでもある。その点を、「全共闘」のオボッチャマ集団は、「革命」などという夢を見て「暴れた」のである。
 三島は三島で、昭和天皇への憧憬を、思想にまでもっていく。問題はその作り方で、三島は世界文学の教養があったから、自然、「現代思想」にならざるを得なかった。それで、「ぼくの大っ嫌いなサルトルの『存在と無』にこんな言葉がある──」なことを言う。ちゃんと読んでいるのである。彼は彼なりに、サルトルを超えようとしていた。そして、自衛隊への突っ込みも、「クーデターの要求」は表向きで、実は「テロ」だった──。彼以外の日本人のすべては右も左も、思想的には近代を迎えられず、三島のみが、構造主義のあたりに来ていた──。誰も理解してくれず、たった一人で楯の会というミニチュア軍隊を作り、「革命」を「演じよう」とした。結果はわかっていた。
 本作でTBSが録画していた、全共闘との討論は、自衛隊に突っ込む一日半前である。あのもの柔らかで清々しい表情からは、いかなる決意も窺われない。そして本編は、最後の「事件」はごくあっさりと伝えている。しかし、私は新聞が伝えた、生首が転がっている写真をいまだに覚えている。その生首こそが、「モノ」であり、全共闘の学生たちは、ついぞモノをつかむ前に、言葉(観念)の前に生き延び、普通のジジイになっていったようだ。そういう事実を、まざまざと見せてくれるドキュメンタリーである。
 それにしても、この討論には、女性の存在は皆無である。まあ、マッチョ集団とも言える集団ではある。



2019年9月17日火曜日

【詩】「アンリ・ベルクソン」

「アンリ・ベルクソン」

時間の中で、言葉と空間の間に吊られ
意識を取り出そうと夢見る。同時期フロイトと、
同じものを見つめ、
魂のありかを探る。
結局、肉体と魂は平行していないことを
発見し、みずからのなきがらを葬る。
そらこれが魂というものだ、それは、
焼き場では拾えない、死んだ時
ひとは魂を解放する、肉体から
それから時間だ。ブラックホールが
どこよりも明るいなんて
知っていたさ、彼は笑って
アインシュタインを
送り出す、空間へと。




2019年7月4日木曜日

【詩】「Char、そして雨」

「Char、そして雨」

Hypnos saisit l'hiver et le vêtit de granit.
L'hiver se fit sommeil et Hypnos devint feu. La suite appartient aux hommes.*

ヒュプノスは冬を捕まえ冷たい花崗岩の服を着せた。
冬は眠くなりヒュプノスは火になった。そして彼らは人間に属した。

そして雨。
雨は神話では語られず
東洋の湿度のなかで
眠りの役目を果たす
癒しと
かの国はスペイン
海の向こうにはイングランドがひかえ
訪れたことなど遠い昔のように

なにがひとを癒すのか?
なにが神を癒すのか?
なにが物語を癒すのか?

それは解体という名の
神の逃亡

きみはつぶさに見るべき
立ち直るために


******

* RENÉ CHAR 'Feuillets d'Hypnos'  ("Fureur et mystère"







2019年5月11日土曜日

Les tableaux d'Hiroshi Senju

Les tableaux d'Hiroshi Senju

Commemorating the Completion of Fusuma Paintings for Kongobuji Temple, Koyasan.

La chute et le precipice sont le sujet de Hiroshi Senju. Si on approfondi la litterature classique japonaise, on peut voir une sorte d'essence, et ici les personnages disparaissent et la naure seule reste. C'est a dire la chute et precipice. Surtout la chute, cela, a le bruit comme "signifie" et a l'histoire des gens comme "signifiant". La violence de l'embruns blanc  reste immobile dans l'encre de Chine dont on ne peut exprimer que par les couleurs naturelles a  roche.







2015年1月15日木曜日

フランスはどうなる?

FaceBookでの、『Le Monde.fr』のフォローをやめた。同じこと(例のあの「私はシャルリー」)ばかり、手替え品替え繰り返してウザい。風刺週刊誌『シャルリー・エブド』がテロリストに襲撃され、何人もの風刺漫画家(編集長を含む)が殺されたが、この週刊誌は、かなり長期にわたり、イスラム関係者を挑発し続けてきた。無辜のアフリカの一般市民がテロリストに殺され続けているのとはわけがちがう。

「命知らずにも」テロリストを挑発を続けたことは、「命より(彼らの考える)『言論の自由』の方が大切だ」という認識があったとしか思えない。

フランスは、「テロとの戦争」を宣言した。血で血をあがなおうというのか? オルランド現大統領(社会党)もそういう立場だが、極右政党「フロン・ナショナル」のマリーヌ・ル・ペン党首も同じことを言っている。テロリスト、イスラム原理主義者と、普通のイスラム教徒は違う、と認識し合う場面にはたびたび出くわすが、やがては混同されるだろう。憎悪のなかで、意識的に混同されうる危険をはらんでいる。

「私はシャルリー」を茶化し、テロリスト支援であるかのような見え方をした芸人が逮捕された。「言論の自由」などと言いながら、すでに思想統制が始まっている。


さあて、どうなるんですかね、おフランスは?

行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...