2012年3月22日木曜日

金井美恵子と多和田葉子


ともに、世界の作家を意識する純文学作家である。で、果たして、世界に連なっているのかどうか──。

『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ 』(金井美恵子著、2012年1月、新潮社刊)

 執拗に書くことの快楽(服に関する顕微鏡的な細部を延々と語るなど)を追求するれば、きっと評価してくれる人がいる。毎度、お馴染み、「金井節」がすきな人にあてた、確信犯的作である。この作家自体が確信犯的存在である。題名にも現れているように、同じ話を「何度も語る」ことが文学であるのは、べつにあらためて言われることもない。文学史上に名前を見ることのできる作家は誰もがやっている。
 恐れながら、プルーストと金井美恵子の違いは? 前者には、社会と自分との関係が書かれているが、後者は、ただオタクの世界だけ。十代からプロの作家になり、とくに大衆に迎合することなくそれで食ってきているらしいので、それなりの筆力のようなものは備わっているのでしょう。物語の語り手は男性らしいが、やはり作者自身の無意識が、無意識的に、露呈していると言わざるを得ない。

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『雪の練習生』(多和田葉子著、2011年1月、新潮社刊)

 作者はドイツに住み、ドイツ語も堪能で、ドイツ語でも小説を書き、賞も取っているというので、期待して読み始めた。もちろん、同作者のほかの作品も読んでいるが、詩的なきらめきは感じても、世界に並べる小説として息の長さ、エネルギーの持続などを期待したが、やはり、日本の、純文学の、作家の作品以外のなにものでもなかった。とくに、数行で、ある文体の思想世界の持続が崩れていく。日本的とも言えるような情緒にかすめ取られ、文章が曲がっていく。それは、ドイツ語圏の作家、ギュンター・グラスと比べれば(比べてはかわいそうなのかもしれないが)歴然としている。ギュンター・グラスにも、人間以外の語り手が登場する、『ひらめ』のような作品があるが、その息は長く、作品の構想もスケールもエネルギーも、知的意識の持続も、圧倒的なものがある。そういうものの、せめて片鱗でも期待したのは間違いだった。

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「お写真」は、近所の犬友だちの老婦人にいただいた、椿。とくに、うすピンク色は、「あけぼの」という名前だそう。



2012年3月21日水曜日

『世界認識の方法』──他人のフンドシでとった相撲?


『世界認識の方法』吉本隆明(1980年6月刊、中央公論社)

「いかにしてマルクス主義を始末するか」

 最初で最後の、吉本隆明とミッシェル・フーコーとの対談が収められた本である。本書の中で、フーコーの発言はかなりの量を閉め、内容も深いものがあるが、帯にフーコーの名前はあるものの、本書の「著者」は、吉本隆明一人である。つまりこれは、吉本隆明の本として刊行されている。
 この対談を、フーコー側の資料で見れば、書籍以外の全執筆、対談、講演等が収められた、『FOUCAULT Dits et écrits Ⅱ, 1976-1988』に、

  Méhodologie pour la connaissance du monde : comment se débarraser du marxisme
       entretien avec R.Yoshimoto, 25 avril 1978 ; trad.R.Nakamura

 とある。つまり、本対談は、1978年4月25日に行われた。
フーコー、52歳、吉本隆明、54歳である。フーコーには、日本語の翻訳された著作が多々あり、一方、吉本隆明の著作は、英語にもフランス語にも訳されていないので、本対談でフーコーが言っているように、蓮實重彥氏による、吉本氏の仕事の要約、紹介、著作リスト等によって、吉本の仕事の概要を知った。
 対談のテーマは、題名にあるように、マルクスおよび、マルクス主義をめぐる思想のある方である。それがどうして、「世界認識の方法」なのか?

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行わけ詩?

ボルヘスは、詩の内実は、リズムだと言っている。そういうとき、行わけが必要になるんです。自分は、T.S.エリオットから詩を学んでいるんで、日本の詩人のみなさんが、散文がどうこう、行わけがどうこうと、侃々諤々している意味がまったくわかりません。だいたい、この分類は、間違っている、散...